中山道 板橋宿訪問 (その2)

  • 2011/12/30(金) 22:32:33


前回の続きです 

ちなみに前回記事はこちら ⇒ 板橋宿訪問(その1)




平尾宿脇本陣


ここは新選組ファンとしては、はずすことができない史跡ですね。

新政府軍に投降した近藤勇が幽閉された場所です。


平尾宿脇本陣
平尾宿脇本陣 posted by (C)ルンちゃん




この豊田家は平尾宿の名主で、代々市右衛門を名乗っていました。

幕末の頃の当主は喜平次で、その孫娘・とみと

近藤勇との和やかな交流があったという逸話もあります。

真意の程はわかりませんが、とみ女に愛娘・瓊子(たまこ)の面影を重ねて、

ほんのひとときでも心なごませることができた と信じたいですね。





観明寺


こちらは新選組とは関連がありませんが、

ボランティアの方に案内して頂きました。

石神井川の向こう側、板橋宿の東側には

かつて加賀藩の下屋敷があったそうです。





この観明寺には加賀藩下屋敷から移された

赤門と稲荷社があります。

加賀藩の赤門といえば、東大の赤門を思い浮かべますが、

ここにも同じ加賀藩の赤門があったんですね〜。


これも赤門です。
これも赤門です。 posted by (C)ルンちゃん



東大の赤門よりは小さい気がしますが、

まさしく赤門ですよ。

こんなところでお目にかかるとは、思いもしませんでした。






東光寺


宇喜田秀家の供養塔のあるお寺です。

ここには、平尾の一里塚(勇の首が晒されたといわれている)

にあったと伝わる地蔵菩薩坐像や、

寛文2(1662)年の庚申塔があります。






特にこの庚申塔は彫刻がすごくて

庚申塔の特徴である邪鬼や猿や鳥、

月と太陽(その他いろいろ)が揃いぶみ

しかも庚申塔って表面が削れていたり、砕けていたりが

けっこうあるものですが、こちらのものは状態がすごく良くて、

顔の表情の細かい部分まできれいに見えますよ。

これは必見の価値ありです





ボランティアの方とはこちらで別れ、

私達はJR埼京線の板橋駅に向かいます。






近藤勇の墓


板橋駅近くの近藤勇・土方歳三のお墓。

ここは有名ですよね。

北区滝野川にある寿徳寺の境外墓地にあたります。

近藤勇の墓
近藤勇の墓 posted by (C)ルンちゃん


側面には戦死した新選組隊士他の名前が右に、

病死や変死の隊士他の名が左に刻まれています。

それから正面の近藤勇の諱が、こちらは

「宜昌」になっているんですよね(本当は昌宜^^;)。





そんなあたりを3人で確認してみました





前に来たときは、墓石の一部が破損していましたが、

何年か前に有志の募金で修繕されました。

今はどこが破損していたかわからないくらい

綺麗に直っていますね。よかったです。






同じ敷地内には、永倉新八のお墓と

近藤勇埋葬当初の墓石などもあります。

(他にもいろいろなものが増えました)


新選組のまち
新選組のまち posted by (C)ルンちゃん


ここは「新選組のまち」として活動しているんですね。

近藤勇の墓のお隣にある喫茶店では、

イサミあんみつ
なんていうのもあります。

イサミあんみつあります^^
イサミあんみつあります^^ posted by (C)ルンちゃん



どこが「イサミ」なんだろう? と思って注文してみました

実物がこちらですよ


      これがイサミあんみつです
これがイサミあんみつです posted by (C)ルンちゃん


思っていたより具だくさんで、とくにフルーツが多かったです。

先に昼食を摂っていた私には、かなりの量に感じました。

(しっかり完食しましたけど^^)





お店の人には聞きませんでしたけど、

「この具沢山で無骨(?)なところが 近藤勇に似ているのかも」

と三人で勝手に納得し、お店を後にしました。





こうして三人の板橋宿散策は終わりましたが、

今回もいろいろな発見や、記事には書きませんでしたけど

途中で美味しい和菓子も頂いたりして、

楽しい1日を送ることができましたよ






きっとあなたが板橋宿を散策する時も、見過ごさなければ

チョッとした嬉しい発見ができると思いますので、

板橋宿を訪れる機会があったら、楽しんでみて下さいね



           〜お知らせ〜
こちらの記事で、今年は仕事納めとなります。
今年もたくさん訪問下さいまして、誠にありがとうございました
今年の10月でこのブログも6年目に突入しましたが、
こうして永く続けられたのも、ひとえに
あなたが訪問してくださったおかげです
ありがとうございました!!

来年も楽しいお話を載せるようがんばりますので、
どうぞまた、こちらに遊びに来て下さいね。

それでは良いお年をお過ごしください。
来年があなたにとって、ステキな年となりますように!!




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中山道 板橋宿訪問 (その1)

  • 2011/12/25(日) 22:27:57


毎年、近藤勇忌に一緒に出かけるYさん(以下さくらさん)とBちゃん。

Bちゃんとは今年も歳三忌で会うことができましたが、

勇忌が震災の影響で中止になったので、

さくらさんとはずっと会えずにいました。






このまま会えずじまいで年越しするのは寂しかったので、

「会えませんか?」とメールでお尋ねしたところ、

「いいですよ」のお返事を頂き、3人で会うことになりました





巣鴨で待ち合わせて、向かったのは板橋宿

ここは、浪士隊が小石川の伝通院から京へと旅立ったときに

通った宿場であり、また近藤勇が流山から新政府軍へ投降し、

一時監禁されていた場所でもありますね。





私がこの地を訪れたのは、中山道ウォークをしていた頃ですから、

もうかれこれ10年ぶりくらいです。

本陣などは覚えていますけど、

曖昧な部分もあるので今回はおさらい歩きですね。






Bちゃんが史料をいっぱい持ってきてくれたので、

彼女にいろいろ確認してもらいながら歩いてみました。

写真もたくさん撮ったので、今回は2回に分けてご紹介しますね





これより板橋宿
これより板橋宿 posted by (C)ルンちゃん




江戸日本橋からですと、ここが板橋宿の入口です。

道幅は当時のままだそうですよ。

今は商店街になっていて、いろいろなお店を見るのも楽しいです。





遍照寺


宿場の中ほどに「遍照寺」があります。

ここは明治4年に廃寺となって、その後再び復活したお寺です。

「明治4年に廃寺なら、彼ら(浪士隊)が通ったときはあったよね」


「うん、そうだね」


というわけで、彼らが見たかもしれないお寺なので

立ち寄ってみました




遍照寺に至る道
遍照寺に至る道 posted by (C)ルンちゃん




路地を入っていくとお寺があります。

案内板がなければ見逃してしまいそうですよ。

江戸時代の頃は天台宗で、現在は真言宗だそうです。

時代(&諸事情)で宗教が変わるお寺もあるんですね。

お寺の隣には庚申塔などもありました。






板橋宿本陣跡


ちょうど宿場の中間にあたる中宿の中央に本陣があります。

京都に向かって右側です。

板橋は日本橋の出発点から数えて最初の宿場なので、

泊まるというより休憩に利用されることの方が多かったようです。





今は古い建物はなく、本陣の碑があるだけですが、

当時の本陣の主人・飯田新左衛門のご子孫の方は

今でもお住まいのようです。




中宿脇本陣跡


本陣を通り過ぎて3〜4分、今度は左側に脇本陣跡が見えました。

ふつう、本陣=本家、脇本陣=分家というイメージがありますが、

板橋宿は、中宿の脇本陣に住んでいた飯田宇(卯)兵衛宅の方が、

本家だそうです。



中宿脇本陣跡
中宿脇本陣跡 posted by (C)ルンちゃん



ですから、幕末の頃に和宮様が降嫁されるときは

こちらの脇本陣にお泊まりになったそうですよ。

明治には明治天皇もお立ち寄りになっています。






板橋


再び京都方面に歩くと、2分ほどで

石神井川のほとりにたどり着きます。

ここに立派な橋があるんですね〜。

これが「板橋」、町の名の由来になったといわれる橋ですよ



いたばし〜っ!
いたばし〜っ! posted by (C)ルンちゃん


初めてここを訪れたときは、名前の由来を聞いて

なぜかやたらに感心したものです。

もちろん江戸時代は板でできていましたけど、

今は頑丈なコンクリートの橋になっていますよ。





この先にもいろいろ見るものはありますが、

今回はこの橋で折り返し、平尾宿まで引き返します。





普通の宿場は京都を「登り(上がり)」と考えて、

西から上宿・中宿・下宿と呼びました。

でも板橋は上宿・中宿・平尾宿と名付けています。

それは下宿にあたる場所に「平尾」という町があったことに由来します。





平尾宿脇本陣の近くに、いたばし観光センターがあります。

ここには、区内の名所・旧跡案内や観光パンフレット配布、

古文書・史料などの展示がされていて、板橋宿に来たなら

是非立ち寄ってほしい場所ですよ





訪問した日は寒波で、ものすごく寒い日でしたので、

こちらに立ち寄って一休みしたのが嬉しかったですね。

暖かい室内で、あったかいお茶を頂いたら、

少しホッとしましたよ。





センターには、いたばし観光ボランティアの

「もてなしたい」の方たちが待機していて、

展示品などの説明もして頂けます

地元の話は地元の人に聞くのが一番!

あまり知られていない裏話も聞けるので

こういったボランティアはありがたいですね。

みなさん、とっても親切です。





この日もこの後、ボランティアの方に

平尾宿脇本陣などを案内して頂きました。

そちらのお話は次回に続きます


板橋宿は施設が充実してます
板橋宿は施設が充実してます posted by (C)ルンちゃん


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家茂様と和宮様のお墓参り

  • 2011/10/17(月) 00:03:55

「みなと区民まつり」が開催された10月9日、

友人のKちゃんと一緒に増上寺にある

徳川将軍家のお墓参りに行ってきました。





この日はお祭りということもあって、

お寺周辺はもちろん、境内でも

バイオリニストのコンサートなどがあり、

大変な人混みでしたよ。以前訪れた時とは、

全く違った雰囲気にビックリです。





境内に立ち入り、安国殿にお参りしてから

奥にある霊廟へと向かいます。





この霊廟は、例年では特別公開日以外は公開していません。

でも今年は、大河ドラマ「江」の放送の影響か、

来年1月末まで拝観が可能です。






訪問したこの日は、偶然にも通常の特別公開日で、

無料での拝観ができる日でした。

でも私達は記念品の古写真欲しさに、

有料拝観を希望して入りました





霊廟の前に行くと、いつもは閉められている

青銅の扉(元6代将軍の宝塔前中門)が開けられていて

奥行きのある空間に幾つかの宝塔が見えます。

いよいよ将軍様方との、ご対面です。



将軍霊廟
開かれた将軍霊廟の門 posted by (C)ルンちゃん


増上寺には、6人の将軍と5人の正室、

5人の側室、他子女多数が埋葬されています。

6人の将軍は、秀忠公(3代)、家宣公(6代)、

家継公(7代)、家重公(9代)、家慶公(12代)、

家茂公(14代)です。






ちなみに徳川将軍のうち、あとの6人のお墓は

上野の寛永寺にありますね。

それから初代家康公と3代家光公は、

日光東照宮です。





もうひとり最後の将軍にあたる慶喜公(15代)は、

ご遺言により神式で墓地に埋葬されたので、

谷中霊園にいらっしゃいます。






さて霊廟に立ち入ってみると、右から

家慶公の石塔が見られます。

そして順に家重公・家継公とあり

正面右側に秀忠公の石塔があります。






戦前は今以上に広かった増上寺の敷地に、

それぞれの将軍たちの霊廟があり、

特に秀忠公の御霊屋は絢爛豪華なものでした。

(記念品にこの古写真も入っています)

でも、ほとんどが空襲によって焼け、

木造だった宝塔も焼失してしまいました。






他の将軍の宝塔と秀忠正妻の江様の宝塔は

石塔だったので焼け残りました。(家宣公は青銅)

将軍らのお墓は昭和33年まで、

荒廃のまま放置されていたそうです。





昭和33年より1年半ほど学術調査が行われ、

石塔の下、地中深くに埋葬されたご遺体を発掘、

調査後に土葬だったご遺体は荼毘に付され、

それを一箇所に改葬したのが現在の徳川家霊廟です。





それぞれの石塔に遺骨が安置されていますが、

秀忠公の宝塔だけは焼失してしまったので、

江様の石塔に一緒に安置されています。

ですから他の石塔よりチョッと小さめなんですね。






今年は大河ドラマ「江」の影響で、

この霊廟を訪れる人も多いようで、

「江のお墓はどれですか?」

と尋ねる人が後を絶たないらしく、

江様の石塔の前にはしっかり

「江」の立て看板もありました





正面左側には家宣公夫妻の青銅製の宝塔、

そしてその手前(左側)に家茂公の石塔がありました。

家茂公は新選組にとっても、大変ゆかりのある方で、

今回こちらを訪問したのも、

家茂公にお会いしたかったからです。





その隣には正妻の和宮様の宝塔があります。

他の将軍様は正室と一緒の宝塔ですが、

静寛院和宮様だけは家茂様とは別に、

青銅製の宝塔に安置されています。

孝明天皇の妹君ということもあって、

特別扱いなのでしょう。





最後は将軍生母側室の合同石塔があり、

以上、合計8つの宝塔がありました。

こんな配置です。

   ○   ○←秀忠公・江様
←家茂公    ○
←和宮様    ○
○        ○
    入 口




形はたいだい同じようですが、

よく見ると大きさや図柄など違うところもあります。

建てられた当時の時代背景なども考えてみると、

なるほどと思うところもあって興味深かったです。






江戸時代なら将軍様方の墓前に立つことなど、

恐れ多くてできませんでしたが、今の時代は

期間限定でも、こうして墓参させていただけるのは

ありがたいことですよね。





それぞれの将軍様の墓前に立ち、しばし合掌…

心静かに将軍様方のご冥福を祈りつつ、

霊廟を後にしました。



有章院霊廟二天門
有章院霊廟二天門 posted by (C)ルンちゃん
敷地内に残された有章院霊廟の門






余談ですが、学術調査の報告書は、

活字化されて世に出ています。

増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体
鈴木 尚著



骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと
鈴木 尚著




片方は高価過ぎて手が出ませんけど、

「骨は語る」は一般向けに書かれた本でもあるそうなので、

この機会に、是非読んでみたいと思っています。



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「慶喜、開陽丸下船の地」を訪ねる

  • 2009/08/26(水) 10:47:07

この前の夏休みの時、宇都宮も行きましたけど、

他に、東京の浜御殿へも行ってきたんですよ。

その時の写真があるので、チョッと見て下さいね




浜御殿
の現在の名は 浜離宮恩賜庭園です


浜離宮入口看板
浜離宮入口看板 posted by (C)ルンちゃん

浜離宮入口
浜離宮入口 posted by (C)ルンちゃん
石垣がまだ残っていますね〜^^




江戸時代には江戸城の出城でもあり、

将軍の別邸として使用された庭園ですよ。

将軍がここで鷹狩りをしたり、

将軍一家が美しい眺望を堪能して、くつろいだりした場所なのです。






その中には、あの篤姫様と14代将軍・家茂様、御台所・和宮様

3人でいらっしゃったこともあったらしいですよ





明治になると皇室の離宮として使用されましたが、

戦後は東京都に下賜され、整備の後、一般公開し

今に至っています。






ここには大池の他に、鴨場がふたつ。

以前は茶屋(といってももちろん将軍が使う所)や、

「延遼館」という洋館(幕末の頃建てた)などもあったそうです。






江戸時代に植えた立派な木々は今でも青々としていて、

「3百年の松」は約300年前に、

六代将軍家宣が庭を改修したときの偉業を称えて

植えられたという由緒正しきものもありますよ。



三百年の松正面
三百年の松正面 posted by (C)ルンちゃん




そして、ここがとても面白いと思うのは、

庭園の池の水が海水だということですね



浜離宮の池
浜離宮の池 posted by (C)ルンちゃん
ただの池?いえいえ実は海水なんですよ〜





普通なら池にいるのは、錦鯉とかの淡水魚ですよね。

でも、ここでは海水魚である「ボラ」や「ハゼ」が泳ぎ、

池にできた干潟には、「磯ガニ」がたわむれているのです。


浜離宮の池
浜離宮の池 posted by (C)ルンちゃん
チョッと見づらいですけど、ハゼが乗っています^^;






なんでも潮の干満の変化によって、

庭の趣を変えるために取り入れたものだそうで、

江戸時代には同じような池を作った大名屋敷が、

他にもあったそうですが、

現存している回遊庭園は、こちらくらいしかないようです。



浜離宮の水門
浜離宮の水門 posted by (C)ルンちゃん
ここで、海水を調節してます^^






さて、大都会にポンッと現存している、この庭園。





外国からの見学者がすごく多いのに驚きます。

内はいたって和風なのに、

日本じゃないかもって錯覚するくらいですよ^^;

庭内を歩けば、50メートル行かないうちに、

外国人に出会えますからね。






また、敷地内は時代を感じる趣を持ちながら、

目線を上げれば高層ビルが立ち並ぶのが見えますよ。







少し遠くに視線を移せば、

レインボーブリッジ
東京タワーが確認できますし、

羽田からの飛行機の離陸する姿さえも見られます。






なんという空間なんでしょう〜^^;






この場所にいるだけで、国内外や今昔、森・海。

いろいろ感じることができる面白い空間なんですよね。






それでいながら

「1日中ここにいてのんびりしたいな〜」

なんて思ったりもする場所なんですよ。

不思議です〜。


中島
中島の御茶屋 posted by (C)ルンちゃん




庭内の「中島の御茶屋」や売店で冷たいものを頂いて、

のんびりするもよし、

池を一周してそれぞれの空間を楽しむもよし、

庭園の脇のベンチで、東京湾を眺めながら

飛行機の飛び立つのを見るもよし。





色々な時間の過ごし方ができますよ♪






ところで、この庭園には私にとって、

すごく興味のある場所があります。






それは「将軍お上がり場」という所なんですね。

なんの変哲もない、江戸時代からの石畳なんですけど…






じつはこの場所は、将軍が船遊びをしたり、

船でこの地を訪れたときに、船から乗降した船着場なのです。





しかもこの場所は、慶喜候が

開陽丸から下船した地
でもあるのです。
将軍お上がり場
将軍お上がり場 posted by (C)ルンちゃん





1868(慶応4)年1月6日の鳥羽伏見戦の最中、

大阪城にいた15代将軍慶喜は、戦況不利の話を聞きながらも

反撃すべしとの家臣の意見を受け入れ、

自ら戦場に立つことを宣言し、一同の士気を高めます。






でもその日の夜、老中2名らと、

会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬兄弟を付き従わせ、

夜陰に紛れて裏門番を欺き、天保山沖に停泊中だった

軍艦開陽丸に乗りこむのです。






そして、たまたま上陸して不在だった

艦長の榎本武揚を置き去りにし、

副艦長の沢太郎左衛門に命令し出航、

そうして江戸へと逃げたのでした


将軍お上がり場、看板
将軍お上がり場、看板 posted by (C)ルンちゃん




その時、江戸に到着して、

はしけを使って下船した場所が、ここだそうですよ^^;

その後、勝海舟を浜御殿に呼び寄せ、

今後のことを任せて、自らはここから馬に乗り、

江戸城に入ったのです。






昭和24年の台風で、階段の一部は壊れて海に沈んだそうですけど、

石畳に当時のおもかげを知ることができます。
将軍お上がり場、階段
将軍お上がり場、階段 posted by (C)ルンちゃん
この階段から上陸しました






それにしても、「ここで降りたのか〜」

なんてこの地に立って当時を想像すると、

なんか複雑な心境になってくるのは何故なんでしょう?^^;
(深く考えるのはやめとこう…)







ちなみに、家茂が大阪で亡くなって江戸に戻ったときも、

船でご遺体が運ばれ、ここから下船なさったそうです。

こちらは想像するに、おいたわしい限りです






こんな歴史的にも重要な場所ではありますけど、

なかなか面白いですし、気に入ってもいますので、

今度はゆっくり時間を取って、のんびり過ごしたいと思います。



現実逃避したいときでも、またこようっと。。。^^;

浜離宮の花畑
浜離宮の花畑 posted by (C)ルンちゃん
こんな、お花畑もあるのです^^


浜離宮恩賜庭園
住所:中央区浜離宮庭園1−1
(JRやゆりかもめ利用で行かれます^^)


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開国のまち、浦賀散策

  • 2008/10/16(木) 10:59:11

先日の日曜日(10/12)は

日野市で「佐藤彦五郎忌」がありました。




でも同じ日にウォーキングのお仲間さんたちが

浦賀散策
に行くというので、そちらに行ってしまいました

じつは浦賀には、今まですごく興味があったのに

行ったことがなかったんです。





日帰りで行ける距離だと、いつでも行かれると思って

なかなか足を運ばないものですよね。

ですから今回は、とてもいい機会でした。





行った場所は、横須賀や観音崎などもありましたが、

ここではやはり、幕末メインでお話していきますね

写真の緑枠の部分が今回行った所です。

浦賀見学場所
浦賀見学場所 posted by (C)ルンちゃん




まずは『浦賀奉行所跡』のことなど

浦賀奉行所
は1720年に伊豆下田番所を廃止して

翌年に相模浦賀番所(海の関所)を設置したときに一緒に作った奉行所です。




そこでは江戸湾出入りの船の荷改めや、

湾の防備を任せられていました。




番所もこの近く(海沿い)にあったのですが

今は何も残っていません。

つり人がたくさんいるだけです。




そして海から離れて、「為朝神社」を超えてしばらく行くと

『浦賀奉行所跡』
の看板があります。これね!
(画像クリックで拡大します)


浦賀奉行所跡の看板
浦賀奉行所跡の看板 posted by (C)ルンちゃん


開国となった安政年間には重要地だったこの場所も、

今は団地になっていて、堀の石垣と石橋の一部が残るのみです。


浦賀奉行所跡
石垣がグルリと団地を囲っています。
歩いてみたら、かなり奥行きが
ありましたね〜











浦賀奉行所跡 posted by (C)ルンちゃん 


  
浦賀奉行所石橋
石橋は一部だけ残っているとの看板の解説。
看板にある奉行所の絵を見て察するに、
それらしい石橋はこれしか見当たりませんでした。

たぶんこれが石橋だと思います








浦賀奉行所石橋 posted by (C)ルンちゃん



『浦賀奉行所跡』から、海沿いの道に出て5分くらい

紺屋町バス停方面に歩くと『愛宕山公園』があります。

愛宕山公園入り口
愛宕山公園入り口 posted by (C)ルンちゃん



わかりづらいので、見逃しそうな所ですよ

左に階段があるので上ってみると、

まだ先に階段があります。




それを上って、もう終わりかな〜って行ってみると

また階段が続いています。(峠道のような場所だぁ〜




もう上がるのいやだな、と思う頃に広場に出ます。

「やれやれ、やっと終わった」と思ったら、目的のものはもう少し先でした

再び階段をあがります。



そして着いた先にあるのが、こちらの大きな碑。

中島三郎助招魂碑
中島三郎助招魂碑 posted by (C)ルンちゃん



これは『中島三郎助招魂碑』です。


中島三郎助
は、浦賀奉行所与力で、

ペリー来航のとき接待した人物のひとりです。

幕府が浦賀に開いた造船所の建造主任として、

日本で最初の洋式帆船鳳凰丸の建造にもたずさわりました。




といっても、ピンと来ない方もいらっしゃるかもしれませんが、

新選組好き、特に土方歳三が好きな方だったら、




箱館政府
箱館奉行並の役職になり、

箱館戦争では「千代ヶ岡陣屋」を守備し、

ふたりの息子と共に壮絶な最期を遂げた人


といったほうが、わかり易いかもしれませんね。





ついでながら、中島三郎助さんは

近藤勇らとは系統は異なりますが、

天然理心流
もたしなんでいたので、

親しみを感じ、私も好きな方のひとりです





この招魂碑は1891(明治24)年に

浦賀の町の有志が建てたそうです。

その際、この公園も整備されました。

というより、中島三郎助の招魂碑を建てるために

作られた場所といっても、いいかもしれません。




碑の篆額は、箱館政府総裁の

榎本武揚
です。





中島三郎助は浦賀の町にいろいろ貢献した方なので、

ここではすごく大切にされています。毎年1月には

「中島三郎助まつり」というものもあるそうですよ。





浦賀といえば黒船来航の地

浦賀の沖合いに4隻の蒸気船が来たのを

この土地の人たちは見たのでしょうね〜。

でも今は海沿いの番所跡から沖あいを見ても、

当時の雰囲気はまったく味わえません。





ところが、この愛宕山から浦賀の沖合いを眺めると、

独特な風情が感じられ、

黒船来航のイメージが湧いてくるから不思議ですね。

愛宕山より浦賀沖を望む
愛宕山より浦賀沖を望む posted by (C)ルンちゃん



バス停まで戻り『浦賀の渡し』

浦賀の渡し看板

これは『東林寺』側にある看板です。
この桟橋で待っていると船がきます。
向こう岸にいる船がみえるくらい近いけど、
陸地だと大回りになるので、
船の方が便利
(最初の地図写真を見れば
 この船の便利さがよくわかりますョ^^)







浦賀の渡し看板 posted by (C)ルンちゃん


『浦賀の渡し』は、江戸時代末期から昭和にかけて

造船港となった浦賀港の東浦賀町と西浦賀町を

船で行き来するルートです。

浦賀の渡しのポンポン船
浦賀の渡しのポンポン船 posted by (C)ルンちゃん

「ポンポン船」
の愛称のある船に150円払って乗ると

4〜5分で向こう岸に連れていってくれます。

反対岸に船があるときは呼び出しベルを押すと、

向こうからやってきてくれます^^

これがなかなか面白いですよ。



その向こう岸に、

中島三郎助の菩提寺『東林寺』があります。

東林寺
東林寺 posted by (C)ルンちゃん

階段を上って左方向に墓所があります。



東林寺
東林寺 posted by (C)ルンちゃん

敷地には正面に「中島家累代之墓」があって

その両脇に三郎助や息子たちの墓が

それぞれにあります。



この時期でも蚊がいるので注意




遠い箱館の地で亡くなったけれど

こうして菩提を弔ってもらえる所があるのは

いいですね。

そう思いつつ、しばし合掌…




以上、今回見学した幕末関連の場所は

時間の都合もあり、こんなところです。

でも長年の希望が少しだけ叶ったので、満足しました。




歩いてみると見たい場所は、まだたくさんあるようで

下調べを充分行ってから、また訪れたいですね。

今度は「いつか…」ではなく、

しっかり計画して行くつもりです



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多摩にもあります「清水寺」

  • 2008/04/17(木) 11:50:25

ルンちゃんは多摩に住んでいるおかげもあって

新選組(というか近藤勇ら)関連の場所によく行きます




それは最初から地図を調べて計画を立てて

「よし、行こう!」

なんて意気込んで行くこともあるのですが、

偶然導かれて訪問することもあるのですよ。





以前ご紹介した、斎藤一諾斎のお寺「保井寺」のときもそうでした。

沖田さんご子孫宅を見つけたのも、小島資料館をみつけたのも偶然なんです。


⇒ 過去記事





ところで以前、仕事の都合で町田の相原・小山方面を回ったとき、

無性に気になるお寺がありました





その場所は初めて行く場所だし、名前もよくある名前だし、

気にすることもないはずなのに、おかしいですよね。





でも、後でその名前のお寺に

天然理心流の関連碑
があることを発見しました。

気になったのは、たぶん以前何かでその名前を知って

潜在的に覚えていたからだと思うのですけどね。





ただ住所はチェックしていなかったので、

その場所が本当に該当の地なのかはわかりませんでしたが、

心の中では「きっとそこだな」って確信していたのです





それで、先日ふと思い立って

自分の確信が正しいかどうか、その場所に行ってみることにしました。





駐車場に車を止め、敷地内に入ると真新しい建物がありました。

それが本堂なのかと思うとそうではなさそうで。





建物を通り過ぎ反対側の場所に立ってチョッとびっくり。

狭い敷地だと思っていた境内のなんと奥行きの深いこと!


080414-3
080416-3 posted by (C)ルンちゃん
上から見たところ
なかなかの奥行きですよね





階段を登り中腹には建物がありましたが、そこは通り過ぎ

導かれるように最上階に進みます。

その最上階には「観音堂」と呼ばれるお堂がありました。






趣味のウォーキングでお寺や神社は多数見ているのですけど

この時見たお堂は柱まで彫刻が施された、

めったに見ることのない位手の込んだすばらしいものだったのです。






思いもしない所でこんな立派な彫刻が見られただけでも

来た甲斐があったなと思いましたよ。






そして、肝心なものはですね…


もちろんありましたよ!






案内看板もなにもありませんでしたが、

迷うことなく目的のものにたどり着きました。
(お導き下さった方々、ありがとうございます






この場所は東京都町田市相原町の「清水寺」です。

「せいすいじ」と読みます。

そしてこの碑は「近藤先生碑」という

天然理心流二代目近藤三助の慰霊碑
なのです。

080414-1
080416-1 posted by (C)ルンちゃん



後日調べてみたところ、

この碑は幕末の頃、当時地元の名主であった

青木勘次郎易道が中心になって建てたものだそうです。





三助の七回忌のときに建てられました。

台座には53人の名が連なっていますが、

中には近藤勇の義父、近藤周助の名もあるようです。





実際に見てみると碑はかなり痛んでいて、

全面の字は読みづらくなっています。

それでも裏面には近藤内蔵助や三助の文字を確認することができますよ。


080414-2
080416-2 posted by (C)ルンちゃん


清水寺は表からみると新しい感じに見えますが、

実際足を踏み入れると幻想的な雰囲気も兼ね備えた不思議な空間です。

是非、また行ってみたいですね。





こんな感じで、偶然発見した場所がまだあるのです。

そのうち機会を見つけて訪れようと思う ルンちゃんです




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レア物続出!?函館史跡写真集

  • 2008/03/29(土) 10:43:25


5月予定の函館旅行は たぶん名所めぐりで、

史跡の見学は少ないと思います。





行っても五稜郭くらいでしょうか?





実は、函館史跡めぐりの超濃厚な旅は、

すでに2年前に実践済です






このブログを始めたきっかけも

その史跡めぐりの様子をお伝えしたかったから

かもしれません。





でも当時はブログを始めたばかりで、

写真投稿などの知識が少なく

あまり写真を載せていませんでした。





あれから2年。





今は「フォト蔵」を利用しての、

ものすごく綺麗な写真を

アップできるようになりました






この機会にあの時写した未公開写真を

ご覧頂きたいと思います^^





130枚のうちからの選りすぐりの写真です。

行ったことのある方も、行こうと思っている方も

どうぞこちらの写真でお楽しみ下さいね





ちなみに「函館史跡めぐり」過去記事はこちらです。
こちらの方が解説は詳しいです。


1日目?
1日目?
2日目?
2日目?
3日目?
3日目?



注…写真の上でクリックすると、簡単な解説ページに移動します。
  ただし、戻ってくるときは×は押さずに、「戻る」クリックか、
  または右クリックで「前に戻る」をクリックして帰ってきて下さいね。
  ×だとそのまま飛んでいってしまいますので…
  直そうと試みましたが、うまくいきませんでした。
  もっと勉強しときます。。。










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大江戸史跡めぐり

  • 2007/05/05(土) 16:44:26

昨年のゴールデンウィークは函館でした


今年は東京にいます。(本当は函館に行きたかったけど…)

せっかくのお休みなので、浅草方面へ行ってみることにしました


題して
「大江戸史跡めぐり―浅草編―」


お供をして頂いたのは さくらさんです。

彼女は『沖田総司・青春の愛と死』の本の中で

「沖田総司・東京史跡めぐり」という紀行文を書かれ

今回の場所はすべて取材済み!

心強〜い案内人なのです



まず最初に向かったのは「釜屋跡」です。



1.品川釜屋跡(品川区南品川3−6−50)

JR品川駅から京浜急行に乗って「青物横丁」へ。

駅3つなのであっという間に着いてしまいました。



駅を出て旧東海道沿いに歩くこと5分。



普門院品川寺(ほんせんじ、またはしながわでらとも)

その斜め前にマンションが建っていますが

そこに釜屋がありました。

kama

釜屋跡はマンションです(^^)

釜屋は幕府の御用宿だった所で、

土方が1867(慶応3)年新入隊士募集の際には

この場所で食事をしたといわれています。

またその翌年には鳥羽伏見戦から江戸に船で戻った新選組隊士たちが

数日間宿泊しています。



マンションのひと隅に小さな案内パネルがあるだけで

昔を偲ぶようなものは何もありません。
          パネル

        パネルには我らの歳さんが!

そのパネルも平成8年より前にはなかったので

通ってもわからず通り過ぎてしまったでしょう。


向かいの品川寺は806から810年頃に創立した古いお寺で

街道を行きかう人々の休憩所となっていた場所だそうです。

新選組隊士たちも境内に立ち寄ったかもしれませんね。



ご住職のお話によると

この道の向こう側は昔は海だったとのことで

隊士たちは自分たちの行く末を 海を眺めながら考えたかも。。。



今は埋め立てられ海を連想するようなものはありませんが、

境内から隊士たちを思い 海を想像してみると

なんとなくもの悲しい気分にもなってくるのです。



2.今戸神社(台東区今戸1−5−16)

青物横丁から浅草へ移動です。

地下鉄銀座線「浅草」下車。



浅草観音を横目に隅田川へ。

言問橋の脇を通り今戸橋を渡り

分かれ道を左へしばらく歩くと今戸神社です。

imado

あの青いものは何〜?
クリックするとわかります



こちらには「沖田総司終焉の碑」があります。

hi

写真で見た あの碑だぁ〜

1868(慶応4)年新政府軍が江戸へ進入してきた際、

医学所頭取の松本良順が家族とともに今戸神社に仮住まいしていました。


永倉新八の『同志連名記』には沖田が

「江戸浅草今戸八幡 松本順(良順)先生宿にて病死」

と書かれていますが、

今ではそれは誤りだといわれています。



ですが、「終焉の碑」があります


しかも門前にはダンダラの看板まで増えていました。

驚きました



今戸神社は「招き猫」の発祥の地でもあるそうです。

また「縁結び」でも有名みたいで、

若い女性が絶えることなく参拝していました。



沖田総司がらみで訪れたのは私たちだけかもしれません(笑)


浅草寺からの観光の人力車もお客を乗せてやってくるので、

なんとなく不思議な気分です。



3.称福寺(台東区今戸2−5−4)

今戸神社から5〜6分の所にあります。

ここに幕軍の怪我人の収容所があり、

松本良順は今戸神社から通って

治療をしていたそうです。

門

以前と門扉が変わったわ(さくらさん談)



しかし史料はまったく残っていません。

震災と戦災によりすべてが消失してしまったそうです。

また病院として使用していた期間も短いようなので

災害に免れたとしても史料は難しかったかもしれませんね。



特に「これ」というものはありませんが

一応周辺をチェックです。



      



今回はほんの数件の史跡めぐりでした。

お江戸の史跡はまだありますので、

また機会をつくって新たな場所にいくつもりです。



この後は新選組に関係なく「浅草寺まいり」やら

「新丸ビル」などの名所めぐりをして楽しんだ2人なのでした



参考資料本
新人物往来社「新選組史跡事典」東日本編


rwn3.bana
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