多摩人(たまびと)漫遊記 〜新選組のチョッと話〜


人生大半を新選組に費やす筆者が、史跡巡りや新選組で得た様々な事柄を綴る。他に街道歩きや旅の話もしてます♪
こんにちは、ルンちゃんです♪

(写真=幕府のイヌ?)
新選組大好き歴が永〜いだけの私ですが、いっしょにお話しましょう!

 
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2.あなたが真っ先に会いたい
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3.試衛館メンバー以外で
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『今日は何の日?』カレンダー

新選組の事件をカレンダーに
してみました。気になる事件を
チェックしてみて下さいね。

 誠新選組の気になるあの日

Serch

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キーワードを入れてみて下さいネ
それでもわからないときは
どうぞお気軽にコメントくださいね〜(^^)
ご好評頂いてます^^


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最近の過去記事はこちらです^^

ふるさとからの珍客^^;

ひさしぶり新選組版「今日は何の日?」です。





1864(元治元)年10月7日。






近藤勇が新入隊士募集のため江戸へ戻っている間、

新選組の留守を預かっていたのは、

もちろん副長の土方歳三






その彼の元へ、

ふたりの男が、ひょっこり訪ねてきました





彼らの名前は、松木元太郎小林重太郎

ふたりは近藤勇の門下だと名乗り、

わざわざ多摩からやってきたのです^^;





彼らの目的はただひとつ

馴染みの近藤勇や土方歳三たちのいる新選組で働きたい!







池田屋での近藤らの活躍を聞いたのでしょう。

「あの歳さんらが働いているんだから、俺達だってできるはず」

とまで思ったかは定かではありませんけど、

新選組に入隊しようと思い立って、

京都までやって来たのでした






でも入隊希望にもかかわらず刀も腰に差さず、

そのくせ、近藤や土方と

多摩の知り合いだとばかりに振舞うその様子。





「鬼の副長」
で鳴らした土方としては、

他の隊士に示しがつきませんよね。

「隊士たちの前で思いっきり恥をかいた」


後でぼやいています。





結局彼らは入隊を許されず、多摩に戻ったようです。




そのときは、やれやれと土方も思ったでしょうけど、

再び、同じような輩がやってきてはたまらない




そう感じた土方は、早速その日起こった出来事を

江戸にいる近藤宛の手紙にしたため、





「今後こういう輩が来ることがないように」

と、いとこで義理の兄でもある

佐藤彦五郎に釘をさして貰ったのでした。





その後、多摩から入隊志願者が

京都まで押しかけることはなかったようです。(一応ね^^;)


※ちなみに捨助が入隊志願にやって来たのは
 その前年のことですよ〜^^

過去記事 ⇒ 捨助がやって来た!



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[・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/10/07/11:13][ ↑ ][ ↓ ]

  • 大和屋焼き討ち事件の日

    大阪力士との乱闘事件から、和解。

    そして京都で相撲興行が行われた話は、前回の通りです

    過去記事
    ⇒ 相撲興行開催の日




    その興行が祇園北林から壬生へと

    会場を移した1863(文久3)年8月12日の事。





    芹沢鴨
    は30人余りの隊士を連れて、

    中立売通り霞屋町にある生糸商大和屋に行き、

    その土蔵数個を焼き討ちしたのです。






    それは

    『大和屋が生糸を買い占め値段を吊り上げて、

     私腹を肥やしているのを懲らしめるため』


    というのが建て前





    でも本当は

    『天誅組に軍資金を渡したことを芹沢が知り、

     同様に浪士組にも軍資金を出させようとしたところ、

     断られたことを腹いせに行った』


    ともいわれています






    土蔵の中にある、生糸や道具類などを

    連れてきた隊士たちに片っ端から路上に出させ、

    周囲の野次馬たちが見ている前で、焼いたのでした。

    もちろん土蔵もボロボロに。






    折角、近藤たちが相撲興行で上げた評判も、

    この出来事で完全に落としてしまったことは

    想像に難くありません。






    あるいはそれが、芹沢鴨の

    本当のねらいだったのでしょうか…?





    新選組全史(上)』著者の菊地明氏によれば、

    実は壬生で行われた2日間の相撲興行で得た収入は、

    壬生浪士組への収入になったらしいのです。

    ですから、観客が多ければ多いほど、

    浪士たちにとってはありがたかったわけですね。







    祇園北林でも浪士たちは一生懸命

    会場の警備にあたっていましたが、

    壬生では張り紙をしたりなど

    より一層、集客に力を入れたのです。





    ところが、それが

    芹沢鴨を怒らせてしまったようです。





    集客して得たこの収入は、

    相撲観覧という商売によるもの。

    「商売=商人がすること」であって、

    けっして武士のすることではない





    恥ずべき行為を平気で行う馬鹿者どもがっ!


    という心境だったようです。





    江戸にいた頃、

    出稽古で収入を得ていた試衛館メンバーたちには

    特に抵抗もなかったこの所業が、

    芹沢にとっては許せない行為だったわけですね。





    つまり大和屋焼き討ちは、近藤らへのあてつけ、

    あるいは、この怒りのはけ口だったとも考えられるのです。





    結局この焼き討ちは夜通し行われ、

    芹沢たちは翌日戻ってきました。




    でもこの所業が会津藩の耳にも届き、

    芹沢自らの死を、決定づけることにもなったのです。


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/08/12/17:24][ ↑ ][ ↓ ]

  • 相撲興行開催の日


    文久3年6月3日に起こった、大阪力士との大乱闘については

    以前にお話しましたよね

    その時の記事
    ⇒ 大阪力士と大乱闘の日





    後日、和解の席が設けられ、

    その席で力士側は壬生浪士組に

    「京都力士との合同相撲興行を京都でやりましょう」

    と約束したのです。







    それが1863(文久3)年8月7日に実現しました






    その日は曇り空ではありましたが、

    壬生浪士たちは木綿黒紋付をはおり、白縞袴をはいて、

    熱心に観客たちを、誘導整理していたようです。






    普段の暴れん坊ぶりは、この日ばかりは感じられず

    始終、行儀よくしていたそうですよ^^

    巷の評判も、少しばかり回復したかもしれません。






    慣れない誘導整理など、その光景を想像すると

    チョッと滑稽さまで感じられますけど、

    彼らにしてみれば真面目そのもの。

    みんながんばったんだろうな〜と思うと

    微笑ましくもありますよね。






    町の人たちに恐れられ、

    蔑まれていたかもしれない彼らですが、

    この日は浪士も観客も一体となり、

    相撲観戦に盛り上がったことと思います。





    次の日は晴天。

    この日も盛況だったことでしょう。






    結局、興行は祇園北林で5日間行われ、

    あとの2日は壬生でおこなわれたようです。






    でも、この壬生での2日がいけませんでした

    それまで、陽気に振舞っていた芹沢鴨が、

    壬生での興行を知ると態度を一変。






    それは、ある大変な事件を引き起こすことになるのです。

    その事件とは?

    8月12日に続きます。。。。


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/08/07/11:13][ ↑ ][ ↓ ]

  • ある美剣士の明と暗


    1863年(文久3)年4月16日。


    壬生浪士・佐々木愛次郎は、

    会津藩の本陣である黒谷にいました。





    この日、彼らの預かり主である、

    会津藩主・松平容保に呼ばれ、

    芹沢鴨や近藤勇らと共にやってきたのです。





    容保の所望により壬生浪士たち(のちの新選組)は、

    御前稽古を披露することになりました。

    そのとき、沖田総司や土方歳三らの剣術の後、

    柔術を佐々木内蔵之丞とともに披露したのが、

    佐々木愛次郎です。





    この日の彼らの喜びは想像に難くありません。

    もちろん愛次郎も、これからの未来を信じ、

    希望に燃えていたことと思われます。





    愛次郎は、大阪の錺(かざり)職人のせがれです。

    その彼が剣術修行の末、やってきたのが浪士組。

    彼なりに希望を抱いてやってきたのでしょう。





    剣の腕前もなかなかでしたが、

    隊内きっての美男子でもあり、

    隊中美男五人衆
    に数えられた人でもありました。




    その愛次郎が斬殺されたのが、

    1863(文久3)年8月2日
    のことです。




    千本通りあたりで、男女ふたりが斬殺されているのを

    翌朝発見されたのです。




    最初、殺されたのは

    二条城内の者と思われていましたが、

    その後の調べで壬生浪士組の

    佐々木愛次郎とわかりました。




    子母澤 寛氏の「新選組物語」によれば、

    因幡薬師の境内で、当時めずらしい

    トラやオウムの見世物小屋が立ったとき、

    芹沢鴨に伴われやってきた浪士たちのなかに

    愛次郎もいたようです。





    見世物小屋で、香具師(やし)に

    言いがかりをつける芹沢に向かい、

    香具師と一緒になって謝り、とりなしたのが彼でした。





    それに感謝した香具師の親方が縁で、

    親方の弟が商いしている八百屋に顔を出すようになり、

    その店の評判の町娘あぐりと愛し合うようになったのです。




    しかしそのことが、芹沢や同僚の

    佐伯又三郎の知るところとなりました。





    佐伯は「芹沢があぐりを差し出せといっているから逃げろ」

    と愛次郎をそそのかし、彼を脱走させました。

    しかし、二人の逃亡を途中で待ち伏せし、

    行く手を遮ったのは、この佐伯又三郎だったのです。






    佐伯は愛次郎を斬殺すると、

    あぐりを自分のものにしようと襲い掛かりました。

    しかしあぐりは自ら舌を噛み切り、佐伯を拒絶したのです。





    後日、当夜の佐伯の所業を芹沢が知り、

    佐伯は愛次郎の死と、あまり日をおかずに、

    同じ場所で殺されることになるのです。





    この話が真実かどうかはわかりません。

    でも愛次郎が御前稽古の場にいたことと、

    千本通りで斬殺されたことは真実のようです。





    希望に燃えたあの4月16日から、

    半年も経たない8月2日の、愛次郎の「明」と「暗」




    美剣士ゆえに、より一層の

    悲哀が感じられる気がします。

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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/08/02/14:29][ ↑ ][ ↓ ]

  • ある隊士が粛清された日です

    新選組版「今日は何の日」です。



    まずは「なぞなぞ」から。。。




    権力のあるものには媚びへつらい、

        部下には高慢な態度をとったといわれる
               
                     新選組隊士はだぁれ?





    さて、あなたは即答できますか?

    そうです。武田観柳斎(かんりゅうさい)です





    昔も今も、上役に媚びて

    部下には、ねちっこくいびるような人は好かれませんよね。

    それでも本人に実力があるうちは、周りも従わざるを得ませんけど





    観柳斎も最初の頃は、甲州流軍学を修めたキャリアと、

    武術第一主義の隊中での数少ない文学指導者として、

    新選組の中で重んじられていました。





    慶応元年の近藤勇広島出張には、

    近藤の補佐として、観柳斎も同行しています。

    その頃が彼の絶頂期だったわけですね。





    でも慶応3年、幕府でフランス軍人による

    洋式訓練を取り入れ始めた頃から、

    新選組でも古い兵法は軽んじられ、

    自然、観柳斎の身の置き所もなくなってきました。
    (イヤな奴だったしね…邪険に扱われたのでしょう






    そんな理由からか、その後観柳斎は除隊します。(脱走とも)

    そのまま京都からいなくなればよかったのですが、

    新選組を抜けた後も、独自に勤王活動を行い、

    やがて仲間を集めて倒幕活動を始めようとしたため、

    新選組によって粛清されました。





    それが、慶応3(1867)年6月22日のことです。





    子母沢寛
    著の「新選組始末記」では、

    観柳斎が薩摩藩邸から出てくるところを

    新選組隊士に目撃されたことになっています。





    新選組幹部列座の「観柳斎送別の酒宴」が開かれ、

    その後「薩摩藩の伏見藩邸まで送りましょう」と、

    斎藤一と篠原泰之進に連れられ、伏見へと向かいます。





    途中、竹田街道の銭取橋付近にて

    ふたりに斬られるわけですが、

    もしこれが事実だとしたら、

    道中生きた心地がしなかったでしょうね。
    (結局、斬られてしまいましたけど^^;)







    新選組にいるときに、

    もう少し人望厚き上司になっていたなら、

    観柳斎の運命も変わっていたのでしょうか?





    「人のふり見て我がふりなおせ」と申します。

    観柳斎のような上司にならないように

    お互い気をつけましょうね


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2009/06/22/10:46][ ↑ ][ ↓ ]

  • 井上松五郎送別の宴

    新選組版「今日は何の日」です




    1863(文久3)年3月。
    徳川家茂が、

    将軍としては230年ぶりに上洛した際のこと。

    源三郎の兄、井上松五郎八王子千人同心のひとりとして

    将軍警護のため、その一行に同行していました。





    将軍らは在京中、

    攘夷問題で朝廷と交渉を続けていましたが

    なかなか進行せず、6月になってやっと

    江戸帰還の運びとなり、船で江戸へ戻るため

    6月9日、大阪へと下ります。





    11日。家茂は乗船し無事江戸へと出立しました。

    八王子千人同心たちは、将軍の船を見送った後、

    東海道を江戸へと戻ることになります。





    その前日のこと。

    井上松五郎の帰郷に際し、

    大阪で送別の宴がありました





    在京中に松五郎は、

    新選組内で起こったトラブルについて、

    土方歳三
    井上源三郎らに幾度となく

    相談を持ちかけられているんですね。
    (傲慢になった近藤のこととかね…^^;)






    そんな相談役とも言うべき松五郎に

    お世話になったお礼も兼ねて、

    近藤と芹沢から酒一升が餞別として贈られたようです





    それを受けて夕方から、

    浪士取締りの件で大阪に下っていた隊士らと

    土方、佐伯が合流し送別の宴となりました。
    (参加メンバーは一説による)





    それは1863(文久3)年6月10日のことです。




    懇意にしていた近藤・土方らはもちろんのこと、

    芹沢や平山ら、芹沢派も交えての宴会です。

    よほど松五郎さん、近藤派のみならず

    新選組の内々のことまで相談されていたようですね。




    この日、芹沢鴨は特に問題を起こすこともなく、

    松五郎は彼らと思う存分、別れを惜しむことができました。




    そして翌日、井上松五郎は他の千人同心たちと共に、

    江戸の帰路についたのです


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2009/06/10/10:35][ ↑ ][ ↓ ]

  • 大阪力士と大乱闘の日

    新選組版「今日は何の日?」です




    1863(文久3)年6月に入ってすぐ、

    大阪から、不逞浪士が横行して困っている

    との知らせが壬生浪士組へ届きました。





    それを受けて浪士組では、近藤勇・芹沢鴨・

    山南敬助・沖田総司・永倉新八・斎藤一・

    井上源三郎・島田魁・平山五郎・野口健司
    の10人が、

    大阪へと向かいます。





    2日に大阪入りした彼らは翌日早朝、

    浪士2人を捕縛。見事任務を成し遂げました。
    (ここまでは優秀^^)






    さて、その日はとても暑い日だったようで、

    早々に任務を終えた彼らは、舟遊びをしようと思い立ちました。

    夕方、近藤と井上を除く8人が八軒家から川を下り、

    涼を楽しみます






    途中、斎藤一が腹痛を訴え、一同は下船することにします。

    そこから北新地へ繰り出そうということになったようですが…^^;

    そこで、チョッとしたトラブルがありました。






    難波小橋で、向こうから来た力士と

    道を譲れ譲らぬの言い争いを起こすのです。

    力士の傲慢な態度に、芹沢鴨が我慢できず

    相手を殴り倒しました。

    そのまま浪士たちは歩き始めます。






    しばらくして再び力士と遭遇し

    同じような言い争いとなりますが、

    今度は全員で相手を押し倒します。






    ようやく北新地の住吉屋に着き、

    一同大いに楽しんでいたところ、表がにわかに騒がしい様子。

    見ると先ほどの仲間らしい力士たちが20、30人と

    店の前に群れています。

    どうやら、仲間の仇を討ちに来たようです。






    たちまち芹沢が刀をとり、外へと飛び出していきました。

    もちろん、他の隊士たちも芹沢に続きます。

    あとはもう敵味方入り乱れての大乱闘です^^;






    それは、1863(文久3)年6月3日の出来事でした。






    ちなみにご承知の通り、

    浪士たちはみんな腕に覚えのある猛者ばかり。

    力士たちの手には、到底負えるはずもありません^^;






    熊川熊次郎が死亡し、3人が重症。

    他の力士も大勢が斬られ、さんざんな目にあったのです。

    一方浪士組のほうでは、沖田が頭部、平山が胸を軽く打たれ、

    永倉は島田の刀の切っ先が触れて軽症をおったくらいで、

    たいしたことはなかったようです。






    しかし、そのままにしておくこともできず、

    話を聞いた近藤勇が、すぐさま町奉行に出向き「口上覚」を提出。

    最終的には、力士側が詫びを入れる形で話は収まったのでした。





    浪士の取締まりのために、わざわざ大阪まで来たのに、

    こんな騒ぎを起こしてしまって、よかったのでしょうか?

    どちらにしても、壬生浪士組の存在は大阪の人々に

    この時強く焼きつきましたよね!





    その後、この事件が縁となり、

    壬生で相撲興行が行われます。

    でもそれが幾つかの波紋を生じるわけですけど…





    その話は、また後日といたしましょう



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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:4]
  • [2009/06/03/10:43][ ↑ ][ ↓ ]

  • 土方歳三、会津城下入りの日


    新選組版「今日は何の日」です



    1868(慶応4)年4月19日、

    宇都宮城を陥落、占拠した土方歳三ら旧幕府軍でしたが、

    その後の新政府軍からの猛攻撃により、城は奪われ、

    その攻防戦の最中、土方は銃弾により足指を負傷します。





    その後、土方は今市まで移送され、

    山王峠を越え大内宿を通り、会津若松城下に入ると、

    七日町の清水屋
    にひとまず体を落ち着けることになりました。




    それは、1868(慶応4)年4月29日のことです。




    先に会津入りしていた医師・松本良順の

    治療を受けていた清水屋の土方の元へ、

    旧幕臣の望月(富岡)光蔵らが見舞いに訪れました。





    彼らは先行して江戸を脱出していて、

    同じ七日町に逗留していたようです。





    その初対面の望月に対して、土方は

    「汝等吾レ与セヨ (お前達、我々と一緒に戦いたまえ)」


    と高飛車な物言いをしたといいます。




    それに対して、少なからずムッとした望月は

    「生来の文官だから、実戦をする気はない。

     ここで会津藩の補給関係の実務にあたるつもりだ」

    と答えて立ち去ろうとしました。





    そこへすかさず、

    「会津まで志を立てて来たくせに、臆病なことだ

    と土方が言ったものだから、もう売り言葉に買い言葉^^;





    望月もはき捨てるように

    「宇都宮城を敵に奪い返されたのは

     (お前が)臆病だったからではないのか」

    と言ったのです。






    その言葉に土方は

    「これ以上お前達の言い分を聞いていたら、

     病(怪我の具合)が悪くなる。出て行け!」

    と言って、枕を投げつけたそうです^^;





    足の怪我がなかなか治らず、思うように事も運ばず、

    彼もイライラしていたのでしょう。

    土方さんのお気持ち、お察しいたします。




    しかし、いらぬとばっちりを受けたのは望月光蔵たち。

    彼らの記憶には



    「土方歳三は態度の傲慢な、嫌な奴っ!




    と植えつけられ、子々孫々にまで語り継がれたということです。

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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:7]
  • [2009/04/29/12:18][ ↑ ][ ↓ ]

  • 御前稽古、披露の日

    その日は彼ら壬生浪士組にとっては、夢のような、

    でも忘れられない日だったに違いありません





    壬生に住処を落ち着けた芹沢鴨や近藤勇ら浪士組が、

    ひとまず会津藩のお預かりになったのは

    1863(文久3)年3月15日のこと。





    それから一ヶ月ほどが過ぎ、特に大きな事件は起こらず、

    洛中の警備に当たっていた彼らの元へ、

    預かり主の会津中将松平容保から、隊士全員

    本陣のある黒谷へ来るようにとの連絡があったのは

    4月15日のことでした。





    会津中将様からの直接の要請に、一同は翌日、

    不安と期待を胸にしながら、黒谷を訪問したのです。




    1863(文久3)年4月16日。




    一介の浪士に過ぎない彼らが、

    大名である松平容保に拝謁できたという喜びは、

    想像に難くありません。

    しかも容保様は彼らの腕前を見たいと

    御前での稽古まで所望したのです





    ここで自分たちの腕を認めてもらえたなら、

    会津藩は彼らに期待し、今後の活動もスムーズに運びます。

    でも反対にしくじれば失望され、

    下手をすれば指揮下からもはずされ、

    再び路頭に迷うことにもなりかねません 





    彼らは、自分たちの将来をかけて、

    ベストな人選で稽古披露に臨んだのです





    さてその対戦の組み合わせは、こちらですよ
              
               

    1.藤堂平助  ×  土方歳三
    2.永倉新八  ×  斎藤一
    3.平山五郎  ×  佐伯又三郎
    4.山南敬助  ×  沖田総司




    なんと羨ましい組み合わせなのでしょう

    その場にいて、一緒にじっくり見ていたかった

    と思うような人選ですよね!





    最初はウォーミングアップのような、藤堂×土方の立合いで始まり、

    次に永倉×斎藤の息をもつかぬ迫力の対戦を披露する。

    そしてしっかり(ちゃっかり)最後は、

    山南×沖田の天然理心流で閉める!(山南も天然理心流やってます^^)

    この辺の人選は土方の案でしょうかね?(そんな気がします^^)





    その後、川島勝司の棒術と、

    佐々木愛次郎×佐々木内蔵之丞
    の柔術へと続きます。




    もちろん、松平容保様は

    彼らの稽古を見て、しごくご満悦。

    その後、酒の接待もあったようで、みんな上機嫌。

    浪士組の自己アピールは、こうして大成功に終わったのでした。




    彼らにとっては、本当にステキな1日でしたね〜

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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:4]
  • [2009/04/16/10:48][ ↑ ][ ↓ ]

  • 今日は島田魁さんの命日です


    新選組版「今日は何の日?」です

    島田魁
    のお話は、魁さんの誕生の日にも

    お伝えしました。

    ⇒ 「島田魁 誕生の日」





    新選組に入ってからの彼は、

    新選組の歴史に残る事件のほとんどを経験しています。

    「池田屋事件」「禁門の変」「伊東甲子太郎暗殺」

    「油小路事件」「近藤勇襲撃事件」「鳥羽伏見の戦い」…






    そして、箱館戦争――――




    箱館戦争降伏後は、

    一時、箱館・称名寺に収容されますが、

    その後、名古屋城内にお預けとなりました。






    明治6年に放免になると、妻子のいる京都に戻ります。
    (新選組時代に結婚してます)






    そこで、雑貨屋を始めますがうまくいかず、
    (巨漢すぎてお客が怖がったらしい…^^;)


    仏具屋の店員、剣術道場開業師範を経て、

    縁あって西本願寺の夜警を勤めることになるのです。





    ところで魁さんは、身長6尺(約182センチ)、

    体重45貫(約169キロ)の巨漢ではありましたけど、

    みかけに寄らず、すごい甘党だったそうですよ






    なんでも鍋一杯にお汁粉をつくって、

    しかもお砂糖をたっぷり入れ、

    納豆のように糸が引くくらい、よく煮詰めたのを、

    ひとりで全部食べてしまったそうなんです





    体が大きいからよく食べる、といっても

    誰も食べそうもないほど甘すぎるお汁粉を

    平気で平らげる魁さんは、やはりツワモノですよね




    でも、とても親しみの持てる御仁でもあります

    その反面、純粋すぎるほど一徹な面も持っていますよ。




    明治も十数年経った頃。

    京都にいる魁さんの所に、ちょうど京都滞在中だった

    旧幕府軍箱館総裁、榎本武揚からの使いが来ました。




    それは

    「五稜郭以来の旧交を深めたいので、宿まで来て欲しい」

    というものでした。





    しかし、魁さんは

    「会いたければ、向こうから訪ねてくるのが筋というものだ」

    と言って、榎本の依頼を拒否したのです。





    魁さんの旧幕府軍(=新選組時代の旧友)への思い入れは強く、

    明治政府から幾度となく出仕の誘いの話もきていましたが、

    どれも応じることなく、

    終始西本願寺の警備にあたります。





    いくら降伏したとはいえ、おめおめと

    敵方の禄を得て生きることに、

    少なからず抵抗があったのでしょう。

    新選組がなくなった後も、

    彼の心の中にはいつも新選組があったように思います。





    ある非番の日、西本願寺を訪れた彼は

    そこで持病の喘息発作を起こし、

    そのまま帰らぬ人となりました。




    1900(明治33)年3月20日
    享年75歳。

    (新暦に換算すると4月19日だそうです)





    彼は土方歳三の戒名を、

    いつも肌身離さず身につけていたそうです。

    新選組時代、土方からの命令をいつも忠実に実行していた魁さん。

    それだけ、土方さんへの想い(=新選組への想い)

    強かったんですね。




    非番の日に西本願寺を訪問し、

    そこで亡くなるといのも、魁さんらしい気がします。




    新選組の歴史と共に過ごした島田魁。

    新選組の主要メンバー(幹部)たちと共に、

    忘れることのできない隊士のひとりです。


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:8]
  • [2009/03/20/15:47][ ↑ ][ ↓ ]

  • 西本願寺、引越しの日

    ひさしぶり、新選組版「今日は何の日?」です




    池田屋事件や禁門の変での働きにより、

    その名を天下に知らしめた新選組。

    その名声とともに、入隊希望者も増え、

    屯所としていた壬生では手狭になってきました。





    屯所移転の話が浮上しますが、

    そこで彼らが新しい屯所として目をつけたのが、

    西本願寺
    です





    勤王派寄りの西本願寺は、禁門の変の際、

    長州の残党をかくまい、僧に変装させて

    落ち延びさせたともいわれています。

    ですからそこに屯所を置くことで、

    彼らを監視できると考えたわけですね





    最初、この申し出に西本願寺側は

    受け入れを拒否していました。

    (そりゃ〜あたりまえですよね^^;)






    でも、再三の新選組からの要請に

    最終的には折れるかたちで、

    使用を許可したのです^^;





    改装工事を完了させ、

    いよいよ隊士たちの引越しが始まりました




    1865(元治2)年3月10日の出来事です。






    西本願寺の太鼓楼とその西、

    約300畳もある北集会所。

    大法会の時に門徒が集まるその場所を

    全面的に借り受け、新選組の屯所にあてました。





    西本願寺側とは竹矢来で仕切られます。





    とはいうものの、そこは同じ敷地内

    かたや仏門に集う門徒たちのいる場所。

    かたや神も仏も恐れない、無頼漢たちの集団。

    異様な光景に映ったでしょうね〜^^;





    その後、隊士たちは京都守護職から下された

    大砲2門を寺の境内で調練したり、

    捕縛した人や、食用豚の断末魔の叫び声を響かせたり、

    豚や猪を煮炊きする臭いを漂わせたり…






    およそ寺には似つかわしくない光景を、

    思う存分披露したのでした

    (大砲は西本願寺側が守護職に泣きついて、

    後に境内での使用は禁止されましたけどね^^)







    その光景は1867(慶応3)年6月15日の

    「不動堂村」移転まで続きます。

    およそ2年余りの間、西本願寺側は我慢していたんですね。

    さすがお坊様。忍耐力ありますね〜^^;


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2009/03/10/10:54][ ↑ ][ ↓ ]

  • 勘定方、河合耆三郎の災難

    新選組版「今日は何の日?」です。



    慶応2年2月2日のこと―――

    勘定方、河合耆三郎が隊の金子を調べたとき、

    50両がない事に気づきました。




    その時すぐ、上司に報告すればよかったのかもしれません。




    でもちょうど、近藤勇は広島へ出張中で、

    留守を預かっていたのは、副長の土方歳三でした。




    小さな失態でも許されない緊張の隊内で、

    紛失の報告もできずにいた河合は

    他の隊士にはとうてい真似できない、ある行動を取ったのです。





    じつは河合の実家は播磨の米問屋。

    不足の金を父に用立ててもらおうと、国許へ飛脚を出しました。





    飛脚の手配が済んで、ホッとしたのもつかの間。

    土方が河合を呼び出し、

    いま蔵にいくらの金子があるのか尋ねます。




    「500両です」





    河合の言葉に、今すぐここへ持ってくるように

    土方は命じます。しかし金はない。

    しかたなく、河合はありのままを告げました。





    さあ、大変!

    ここで初めて50両がないことが露呈したのです





    すぐさま、河合は重謹慎となりました。

    取調べを受けますが、真犯人がみつかるわけもなく、

    その後、隊規により隊金私消の罪で斬首に決まります。

    河合は「国許に飛脚をだしたので、それが戻るまで

    処分を待って欲しい」
    と言います。





    なんとか12日まで、処分は日延べされましたが、

    いっこうに国許からの飛脚はきません。

    とうとう日没になっても使いは現れませんでした。





    夜になり、処分の場に河合は引き出されます。

    介錯人が彼の後ろに立つと、蒼白な顔をした河合は

    「播磨からの飛脚は、まだ来ませんでしょうか」


    と尋ねます。





    「まだだ」と答えても消え入りそうな声で、

    何度も何度も尋ねるのです。

    しかし、とうとう河合の願いむなしく

    彼は処断されました。





    1866(慶応2)年2月12日
    のことです。




    3日後、河合の待ち望んだ飛脚が来ました。

    河合の父はちょうど外出中で、

    手紙がなかなか父の元へ届かなかったのです。

    彼からの手紙を受け取った父は、すぐさま

    50両を届けさせましたが、すでに彼は処断された後でした。





    このエピソードはよく知られる

    河合耆三郎にまつわる話です。

    でも、本当のところはよくわかっていません




    彼がどのような理由で処断されたのか、

    はっきりとしていないのです。また

    斬首だったとも、切腹だったともいわれています。





    でも確かに、1866(慶応2)年2月12日に

    亡くなったことは事実のようです。





    河合の死を知った父や親族は、新選組の無慈悲に対し、

    彼らなりの方法で抗議しました。

    河合の死後1ヵ月後、空の輿を担ぎ立派な法衣を着た僧侶たちが

    なんども鉦を叩きながら、屯所前を行ったりきたりしたそうです。





    今、壬生寺にある立派な河合耆三郎の墓は、

    彼の親族が建てたものといい、

    光縁寺にある隊士たちの墓が風化し朽ち果てていく中で、

    彼の墓だけは朽ちることもなく、凛とたたずんでいます。





    親族の思いが今だ強く宿っているような、

    そんな雰囲気を感じさせる墓碑です。

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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2009/02/12/10:35][ ↑ ][ ↓ ]

  • 浪士隊編成発表の日

    昨日に引き続き、新選組版「今日は何の日?」です^^




    1863(文久3)年2月4日に、伝通院の塔頭

    処静院(しょじょういん)に集まった浪士たち。




    その日、浪士取締役だった松平主税介が

    突然辞任してしまったのは、前回のお話の通り

    昨日の記事 ⇒ 浪士大集結の日




    その翌日、1863(文久3)年2月5日。

    じつはこの日も、再度浪士たちは集められたんですね。




    幕府の役人らは松平主税介の後任として、

    当日付けで鵜殿鳩翁が就いたことを知らせます。





    鳩翁は

    「約束の金は出せないが、諸君らは志あって

     この場所に来たのだろうから、

     よもや金額に左右されるものではあるまい






    なんて威圧的に言ったのかは、さだかではありませんけど

    幕府からの説明を聞いて、大半の浪士は残ったようなんですね。




    そんな浪士たちにこの日、

    道中心得が申し渡され、編成表が発表されました。






    この編成表については

    いろいろな人が残しているのですが、

    はっきりしたところはわかっていません。




    でもだいたいは、こんなところみたいです



    まず、浪士頭から始まって、

    取扱い、御目付、取締り、取り調べ役などの

    各役職があったようです(名前は省きます)





    10人ごとに小頭(伍長)が付き、それで1隊。

    3隊で1組として、そこに組頭がつきます。

    それが1番から7番組まであるという感じです。
    (別な分け方をしている史料もあります)





    試衛館メンバーは6番組。


    井上源三郎
    だけ別の組に離れていたのは、

    日野からの参加者が他にもいて、

    彼らと共に名簿を提出していた為と思われます。




    近藤勇
    は他に浪士組取締付の池田徳太郎の元で、

    道中の宿割りの役にもついていたようですが、

    これが、ある事件を引き起こしたともいわれていますね





    永倉新八
    によれば、試衛館一同の組頭が

    なんと芹沢鴨だったともありますし…

    ここから、既に芹沢一派との腐れ縁が

    始まっていたのかもしれません





    浪士たちは、この編成表を見て

    ますます士気を高めたんでしょうか?

    それとも不安になったでしょうか?




    その辺りはわかりませんけど、

    3日後の江戸出立に向けて、それぞれ準備を進めたのです。


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/02/05/11:23][ ↑ ][ ↓ ]

  • 浪士大集結の日

    ひさしぶりの、新選組版「今日は何の日?」です
    (事件がなかったものですから…^^;)




    1863(文久3)年、2月4日。




    江戸小石川にある伝通院の塔頭 処静院(しょじょういん)に、

    なにやら、いわくありげな男たちが集まっていました。

    しかも、250人余りの多人数





    じつはこの年3月に予定されている

    14代将軍、徳川家茂の上洛に備え、

    京都の市中警備派遣の、人員募集に応じた

    浪士たちの集まりだったのです。





    250年ぶりに将軍が上洛することになり、

    問題にあがったのは、訪問先の京都が

    テロの横行する危険地帯だということ。





    万一、将軍に危害が及べば、

    幕府の危機管理能力のなさが露呈し、

    果ては徳川政権の失墜にも及びかねません。





    そこで考え出されたのが、「毒には毒を以って制す





    江戸近郊の浪士を集めて京都に送り込み、

    洛中に横行するテロリストたちの取締りをさせようということに、

    前年12月8日の幕府の会議で決まったのです。




    これなら、江戸にいる不逞浪士も一掃されるし、

    京都のテロリストも退治できる。おまけに、

    どちらが傷ついても、幕府は痛くない






    この考えは講武所剣術教授

    松平主税介が幕府に提出したものです。

    でも本当は、清河八郎が友人の幕臣、山岡鉄太郎を通して

    提出させた策だったんですね。
    (実は裏があったのにね…





    そんなこととは、松平主税介も幕府方もつゆ知らず、

    「なるほど、いい考えだ!」
    とばかりに

    松平主税介を浪士取締役に任命し、関東各地に

    使者が派遣され、浪士たちが集められました。





    後に新選組の要となった試衛館の連中も

    この話を聞きつけ、松平主税介宅を訪問し、

    その話が本当かどうか尋ねます。

    するとどうやら真実らしい。





    近藤勇以下試衛館連中も、

    この浪士隊に加わることを決意し、

    2月4日、処静院へ集まったのです。
    (5日だったとも…)





    ところが、肝心の松平主税介は同日辞任





    当初の計画では浪士50人の募集のはずが、

    250人以上の浪士が集まり、約束の1人50両が渡せない。

    責任が取れないと、サッサと退散してしまったのです^^;





    集会早々、暗雲が立ち込める(?)浪士隊。

    どうする?試衛館一同

    この話は翌日に続きます。

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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/02/04/10:29][ ↑ ][ ↓ ]

  • ぜんざい屋事件の日

    新選組版「今日は何の日?」です





    池田屋騒動から、およそ半年後。

    今度は大阪で、

    過激派浪士らの放火計画が発覚しました





    その頃、二番隊に所属し大阪に道場を構えていた

    新選組隊士の谷万太郎は、その道場を拠点とし、

    門弟たちに剣や槍術を教えながら、

    不逞浪士らに関する情報収集を行っていました。





    そんな彼の元に、放火計画が飛び込んできたのです。





    情報元は、門弟の和栗吉次郎で、

    彼の仲間である土佐浪士の浜田辰弥(=田中光顕)、

    那須盛馬らが大阪放火の計画を立てているというものでした。





    1865(元治2)年1月8日


    谷万太郎は、兄の三十郎と門弟の正木直太郎、

    高野十郎を連れて、浪士が潜伏中のぜんざい屋

    「石倉屋」に向かいます。





    店を襲撃したところ、浪士たちのほとんどは不在で、

    「石倉屋」の主人で一味のひとりでもあった

    本多太内蔵もいち早く逃走。





    残った大利鼎吉(ていきち)と万太郎たちが戦います。

    相手の抵抗に、万太郎は胸、三十郎は足、

    正木は手を負傷しますが、最後には彼を斬リ伏せました。






    また本多の妻を捕らえ、

    残されていた武器弾薬、書類等を押収し、

    大阪放火を未遂に終わらせることに成功したのでした





    このときの活躍が認められたのか、

    和栗吉次郎は谷川辰蔵と改名し、新選組に入隊します





    そして、もうひとり。

    ぜんざい屋を襲撃した、高野十郎






    じつは、彼は池田屋騒動直前に、新選組から脱隊した人物で、

    この事件の後、再び新選組に入隊します。

    つまり2度、新選組に入るわけですね。なんと物好きな人でしょう。






    でもそれで驚いちゃいけません





    伊東甲子太郎が新選組から分離するとき、

    伊東について新選組から再び脱隊するのが、この人なんです。

    そうです。彼が高台寺党の一人、阿部十郎です
    (墨染で近藤を襲った一人でもあります)







    新選組を2度入隊し、2度脱隊した人は、

    新選組隊士の中でも、この人だけですよ。

    ずいぶん数奇な人生を歩んだ人ですよね。
    (でも長生きしています^^)



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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2009/01/08/10:14][ ↑ ][ ↓ ]

  • 島原、居続けの日

    新選組版「今日は何の日?」です

    永倉新八の『新撰組顛末記』によりますと…




    お正月のこと。

    伊東甲子太郎
    の思いつきで、新年早々、

    島原に繰り出そうということになりました。





    彼の腹心である服部武雄、加納道之助、中西昇、

    内海次郎、佐野七五三之助、三樹三郎(伊東の弟)のほか、

    めずらしく(?)近藤派のふたり、

    永倉新八、斎藤一
    も連れて伊東は島原へと向かいます。





    正月は島原廓内も休みになりますが、

    「新選組が来た!」粗相があってはならないと、

    店でも芸妓たちを呼ぶという気遣いよう^^;





    伊東は花香太夫(輪違屋)、

    斎藤は相生太夫(桔梗屋)、永倉は小常(亀屋)と

    それぞれ馴染みの女性たちまで呼び出し、

    ついでに、他の新選組隊士たちも集まって、

    飲めや歌えやの大宴会となりました





    そうこうするうち、夜になり…




    門限が近づくと、隊士たちは切腹怖しで、

    次々隊へ戻っていきました




    ところが伊東は

    「いつになく酔ったが、この心地で無骨な隊に戻るのも興なし」


    と言って、このまま飲み明かすことを提案します。

    酔って気が大きくなっている永倉と斎藤も、これに賛成し

    そのまま居続け決定!
    (おいおい

    そうして、世は更けていきました。





    2日目。

    彼らはどうしたかといいますと、

    「どうせ切腹する身だから、この世の思い出に思い切り飲もう!」


    と、またも居続けたんですよね〜




    そして3日目も同じことを繰り返し…




    1867(慶応3)年1月4日


    さすがに4日目になると、近藤勇から使いがやってきたので、

    彼らは重い腰をあげ、隊に帰っていきました。





    帰隊した彼らを、

    近藤が怒気を満面に含んだ顔で迎えます。

    すぐに伊東は近藤の部屋の居間で、斎藤は土方の居間で、

    永倉は別の部屋で、処分が言い渡されるまで謹慎となりました。





    当初、近藤は永倉だけを切腹させようとしたそうです。
    (あくまでも顛末記によりますけど)




    永倉は以前、会津藩に「近藤糾弾」の直訴状を送った

    首謀者であったことから、今回2度目のお騒がせ事件であり、

    彼一人に罪をかぶせようとしたようです。

    関連記事 ⇒ 葛山武八郎処罰の真相




    でも、土方が「それでは片手落ちだ」と反対し、

    他の隊士たちの今後の士気への配慮もあって、

    3人の切腹は免れました。




    結局、伊東と斎藤は2、3日で謹慎を解かれ、

    永倉も6日後に許されています。





    今回は大事に至らず済みましたが、

    この年は伊東らの離隊、油小路の変の年でもあるのです。

    波乱含みの慶応3年は、こうして始まったのです。


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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2009/01/04/14:53][ ↑ ][ ↓ ]

  • 捨助がやってきた!

    本日も新選組版「今日は何の日」です


    「呼ばれもしないのに、やってくるのが捨助でございますよ♪」



    大河ドラマ「新選組!」をご覧になっていた方は、

    このフレーズはご存知ですよね^^




    ドラマに登場していた近藤勇の幼馴なじみ、

    滝本捨助
    が登場するときのセリフです。




    どうしようもない奴でしたけど、

    どこか憎めない役どころでしたよね



    あの滝本捨助は、脚本家の三谷幸喜氏が作り出した

    架空の人物です。

    でも、モデルとなった実在人物がいるんですよ。




    それがこれからお話しする、松本捨助です




    松本捨助は武蔵国多摩郡本宿村(今の府中市本宿)の名主である

    松本友八の長男で、土方歳三と親戚だったともいいます。

    日野の天然理心流道場、佐藤道場にも通っていたようです。




    でも、多摩地方の有名な博徒たちとも付き合いがあったそうで、

    放蕩息子だったのか、長男のくせに家を勘当され、

    とうとう実家は歳三の甥の錠之助(隼人の四男)が

    養子に入り、継ぐことになりました。





    本人は最初の結婚で娘を授かり、明治になって、

    井上源三郎の姪(井上泰助の妹)と再婚しています。




    そんな捨助がまだ勘当される前のこと。
    (たぶん^^; この辺りの時期は調べましたが不明)





    1863(文久3)年、例の浪士組が京に上る話があり、

    彼も入隊を希望していましたが、家族の猛反対にあい

    断念したという経緯があります。




    しかし、どうしてもあきらめきれず、

    しばらくの後、家出同然で本宿村を飛び出してしまいます。




    それでどうしたかというと、単身京へ上ったのです。

    京都から戻ってこない土方たちの活躍を思い、

    どうしても新選組に入りたかったのでしょうね。




    上洛した彼は、さっそく土方歳三を訪ねました。

    それが、1863(文久3)年11月21日のことです。





    彼は新選組への入隊を、土方に懇願します。




    その頃の新選組は、9月に芹沢鴨を粛清し、

    近藤勇が主導権を握り、いよいよ自分たちが

    新選組を引っ張っていくという時期で、

    隊士を増やしたいところもあったと思われます。




    でも彼が長男だったからなのか、

    土方は入隊を認めていません。




    土方は捨助を諭し、多摩へ帰るよう促します。

    そして彼が帰郷の際に、

    小野路村の小島鹿之助への手紙を託すのです。




    門前払いをくわされた捨助は、泣く泣く多摩に戻り、

    12月19日にきちんと小島家に手紙を届けています。
    (こういうところは律儀^^)





    ちなみにこのとき土方が託した手紙というのが、かの有名な



    『報国の心ころをわするゝ婦人哉』




    という川柳の入った手紙で、「色街で、もててもてて困るんだ〜」

    と自慢しているものなんですよ…




    人生をかけて上洛した捨助なのに、

    京都からこんなもの持たされて、

    なんだかかわいそうな気がしますよね。




    それで多摩に帰った捨助はあきらめて、

    平穏に過ごしたかというと、そんなことはありません




    土方からの門前払いにもめげず、勘当にもめげず(?)
    (この間1度目の結婚もしている)


    1867(慶応3)年、土方が

    江戸での新選組隊士の募集をしたときに

    こりもせず、再び入隊を志願するわけです。




    そしてやっと新選組への入隊を、許可されました。



    こうして憧れ(?)の新選組に

    入ることができた捨助でしたが、

    その後の彼の体験は大変なものだったでしょう。



    だって入隊の時点で、慶応3年ですからね。
    (その後の話は、またの機会に…^^;)



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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2008/11/21/11:32][ ↑ ][ ↓ ]

  • 伊東甲子太郎粛清、油小路の変

    新選組版「今日は何の日」です。




    新選組から分離した伊東甲子太郎ら御陵衛士(高台寺党ともいう)

    その御陵衛士に侵入していた斎藤一が

    新選組に戻ってきたのは11月10日のこと。




    過去記事
    ⇒ 斎藤一、帰隊の日




    「近藤勇の暗殺計画あり」





    と、斎藤一から告げられた近藤と土方歳三は、

    その先手を打つことを決意し、

    伊東甲子太郎をおびき寄せることにしたのです。





    「今後の情勢について相談したい」

    「かねてより借用の相談のあった、金銭の準備ができた」

    などと口実をつくり、巧みに伊東ひとりを

    七条醒ヶ井にある近藤の妾宅へ招待しました。




    伊東の仲間たちは危険を察知し引き止めますが、

    当の伊東は、よもやそんなことはないだろうと

    近藤らの誘いに、まんまと乗ってしまいます。





    近藤勇の妾宅を訪れた伊東は、

    彼らの進められるまま大いに酒を飲み、

    熱弁をふるいました。





    そろそろ退出…という頃には酩酊の様子。





    駕籠を呼ぼうとする近藤らを制し、

    伊東は夜道をひとり歩き出します。





    木津屋橋通りを歩いていると、

    ふいに板塀の隙間から長槍が

    伊東めがけて飛び出してきました。

    それは、伊東の肩先から首をつらぬきます。




    それでも気丈に伊東は振る舞い、

    伊東めがけてやってくる新選組隊士のひとりを

    抜き打ちざまに斬り伏せました。




    しかし次々と襲ってくる刃には、なすすべもなく、

    東側にある本光寺門前の碑石に腰を下ろすと

    「奸賊ばら!」
    と言って絶命します。


    ※奸賊(かんぞく)ばら…「奸賊」は心のねじけた者。憎むべき悪者の意(Yahoo!辞書より)
                   つまり「憎っくき奴らめっ!」と言って果てたのです。




    こうして伊東はあっけなくこの世を去ったのです。

    しかし、事件はこれだけでは終わりませんでした。




    隊士らは、伊東の遺骸を七条油小路の辻まで持っていき、

    その場に打ち捨て、御陵衛士の屯所に惨事を知らせます。




    あいにく御陵衛士の幾人かは遠出していましたが、

    残っていた7人は、罠だとわかっていても

    伊東をこのままにはしておけないと、油小路に向かいます。




    果たして衛士たちの察した通り、

    油小路では新選組隊士が待ち受けていました。




    自らの血でカチカチに凍った着物をまとう伊東を

    駕籠に乗せて運ぼうとしたとき、

    路地から次々と新選組隊士たちが飛び出し、

    御陵衛士たちを取り囲みました。





    そして死闘が始まります。

    これが「油小路の変」です。

    1867(慶応3)年11月18日
    のことでした。





    この時の新選組側の数は、23人だったともいいますが、

    かろうじてその場から脱出できた御陵衛士は

    篠原泰之進、鈴木三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛
    の4人。





    毛内有之介、服部武雄、藤堂平助
    の3人は、

    多勢の隊士相手に果敢に剣を奮い、討死します。




    その死闘は凄まじかったそうで、

    翌朝周囲に住むものが外に出てみると

    4つの死骸と人間の指が散乱し、

    民家の壁には、鬢(びん)の毛がついたままの

    肉片が付着していたといいます。





    亡骸はしばらくの間、晒されましたが、

    その後新選組の手によって

    四条大宮の光縁寺に葬られます。





    明治の後、三樹三郎や篠原らにより、

    東山泉涌寺の塔頭戒光寺へ改葬され、今に至ります。




    それにしても…




    聡明な人物といわれた伊東甲子太郎が

    のこのこ罠かもしれない近藤の元を訪問したのが

    個人的には、どうも腑に落ちません。





    よく「策士、策におぼれる」

    伊東について語ることがありますが、

    それだけとも思えない気もするのです。




    「新選組組長列伝ー伊東甲子太郎」の稿で

    維新研究家の藤堂利寿氏が、

    加納鷲尾の『履歴書』
    を引用し、考察しています。
    (加納鷲尾は生き残った加納道之助のこと)






    「(近藤の)招きに応じなければ卑怯者になってしまう。

     且つ、世間では我々のことを新選組と同視していて、

     誠に遺憾だ。もし私(伊東)が新選組によって死んだら、誤解も解け、

     御陵衛士は勤王の士として受け入れられるだろう」

     (加納鷲尾の『履歴書』、わかりやすいように、一部私の解釈も入っています^^)




    もちろん近藤たちのことを軽視していた部分もありますが、

    近藤を暗殺しても自分が殺されても、どちらによっても

    御陵衛士の評価が変わると考えたとするなら、

    その方が伊東らしいと思えてくるのです。
    (伊東のことを過大評価しすぎかしら?^^;)





    実際、伊東の死後

    御陵衛士たちは新政府軍に受け入れられ、

    活動していくのですからね。



    ※後半部、藤堂利寿氏の考察をお借りしました。
     著者様には、この場を借りて御礼申し上げます。




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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:7]
  • [2008/11/18/12:06][ ↑ ][ ↓ ]

  • 斎藤一、帰隊の日

    新選組版「今日は何の日?」です




    1867(慶応3)年3月20日、

    新選組からの分離のため

    画策していた伊東甲子太郎らは、

    この日晴れて新選組と離別することができました。




    その後、彼らは「御陵衛士(ごりょうえじ)」と名乗るようになります。




    分離のメンバーは鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄ら13名。

    その中に、斎藤一の姿もありました。




    斎藤一は浪士隊結成当初からの古参隊士で、

    近藤勇たちとはすでに、江戸試衛館時代から

    顔見知りだったともいわれています。




    しかし、新選組から袂を分かつ少し前から

    伊東らとのかかわり合いが深くなり、

    分離の際は伊東らと行動を共にしたのです。





    分離にあたり、新選組と伊東ら御陵衛士との間には

    「互いに、新選組より御陵衛士へ、御陵衛士から新選組へと

    異動を願うものがあっても、決して許してはならない」


    という取り決めを設けました。




    この取り決めのために、希望が受け入れられず

    悲惨な事件さえ発生している有様です。




    にもかかわらず、ある日斎藤一がひょっこり

    新選組屯所へ戻ってきたのです。

    1867(慶応3)年11月10日のことでした。






    その日の晩、

    「副長助勤斎藤一氏公用をもって旅行中の処、

    本日帰隊、従来通り勤務のこと」


    との掲示が貼り出されました。
    (隊士池田七三郎こと稗田利八談)





    じつは斎藤一は最初から、伊東らの行動を監視するために

    近藤らがたてたスパイだったのです。




    伊東甲子太郎らが薩摩藩の、

    一活動部隊として仕事がし易くなるために

    近藤勇の暗殺計画を立てていることを、彼は報告したのでした。




    こうして新選組に戻った斎藤ですが、

    御陵衛士たちは自分たちの計画が洩れたことには

    気付いていません。




    斎藤がスパイだとは、

    当時誰も思っていなかったようなのです。





    高台寺党のひとりだった阿部十郎などは、明治になっても

    「同志だった斎藤一は女にだらしない奴で、

    島原の女に通いつめたあげく金に困って、

    伊東甲子太郎の机から50両を盗んだから、

    御陵衛士へは戻れなくなって近藤勇の所へ行ったのだ」

    (参考:史談会速記録)


    と語っているほどです。





    スパイとしての仕事を、完璧に遂行した斎藤一。

    彼の帰隊は何を意味しているのでしょうか?




    その答えは、数日後にわかることになります。



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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2008/11/10/10:27][ ↑ ][ ↓ ]

  • 近藤勇、松本邸再訪の理由

    本日もまた、

    新選組版「今日は何の日?」
    です。




    1864(元治元)年、10月11日に、

    近藤勇が初めて松本良順宅を訪ねたことを

    お話しましたよね




    そのときの記事
    ⇒ 近藤勇が松本良順を訪ねた日




    じつはその日から3日後に、

    彼は、再び松本良順宅を訪ねています。




    1864(元治元)年10月14日の出来事です。





    いくら話が聞きたいからって、

    近藤先生、チョッと気が早すぎやしませんか?





    そう突っ込みたくなりますけど、

    それなりの理由があったんです。

    さてその理由とは?





    近藤は良順先生に向かい

    「今度は本当の病で、診て頂くために来ました」


    と笑いました。





    そうなんです。

    胃を痛めてしまった彼は

    良順宅に患者として訪問したのです。






    胃や腸はストレスなどによるダメージを

    受けやすい器官といいます。

    建白書提出などの精神的な負担か、

    それとも忙しく動き回った長期江戸滞在で、

    疲れが出たのでしょうか。





    どちらにしても翌日には江戸を立ち、

    京へと向かう予定でしたので、

    その前に最先端の医学を身につけた名医に

    診てもらおうと思ったのでしょうね




    さて、良順先生は近藤の診察後、

    「健胃制酸下剤」
    を渡したそうです。




    「健胃制酸下剤」の名前から察するところ、



    健胃薬
    は胃の機能低下を補って、

    唾液の分泌を促したり、胃の機能を高める効果があり

    胃の調子が悪いときに使うそうです。




    制酸薬
    は胃酸過多を抑えるもので、

    胃液の過剰分泌を抑えたり、胃液の酸を中和したり、

    胃粘膜を保護したりするものだそうですよ。



    つまりは総合胃腸薬みたいなものでしょうか?

    (専門家じゃないのでわかりませんけど…)




    でも良順先生のお薬のおかげで、予定通り

    近藤勇は翌日、新入隊士たちを連れて

    京へと旅立つことができました。





    ふたりは京での再会を約束し、

    その通り屯所へも訪れる良順先生ですが、

    そのお話は、またといたしましょう




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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:0]
  • [2008/10/14/10:13][ ↑ ][ ↓ ]

  • 近藤勇が松本良順を訪ねた日

    今日は10月11日

    恒例の、新選組版「今日は何の日?」です



    池田屋事件、禁門の変などの経験から

    「兵は東国に限る」
    と考えはじめた近藤勇。




    その隊士募集を江戸で行うため、

    近藤は数名の隊士を連れて、京を離れます。

    ちなみに、東帰のメンバーは

    近藤勇、永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎です。





    1864(元治元)年9月9日、

    江戸に無事到着した近藤らは

    目的遂行のため、そつなく活動しました。





    その合間、近藤は松本良順宅を訪ねます。


    松本良順
    は医師であり、西洋医学所頭取でもあり、

    後に新選組に、大いなる理解と親交を示す人物ではありますが、

    このときの二人は初対面




    それは、1864(元治元)年10月11日のことでした。





    名刺を近藤から渡された家人や門人たちは、

    恐ろしい浪人が良順を斬りにやってきたと

    右往左往する始末。





    しかし、良順は家人らに

    「世間では近藤勇を乱暴者のように言っているが、

    彼らのすることは大概は道理に適っていることだ」


    と言って、臆することなく近藤の前に現れたのです。




    さて、この日の近藤勇の用件はというと、




    西洋かぶれの良順を斬る!





    というつもりは毛頭なく^^;

    諸外国や西洋事情について

    良順に教えを乞いたいというものでした。





    近藤らの江戸行きの目的のひとつは

    先ほどの話の通り、隊士募集ではありましたが、

    真の目的は、老中 松平伊豆守崇広邸に赴き、

    将軍上洛を要請する建白書を提出することだったのです。





    「長州征伐のために3度目の将軍上洛を実現すべき」

    と考えていた近藤は、自分なりにいろいろ見聞きし

    幾多の疑問を抱えていたのかもしれません。




    そんなこともあって、西洋にも通じる良順に

    世界の情勢なども聞いておきたかったのでしょう。




    松本良順は、この無骨者にも誠実に接し、

    外国の学問や軍隊などの水準の高さを示し、

    「虚心を保って天下の大勢に注目し、大いに思慮すべき」


    と説いたのです。





    良順の話を聞いた近藤は

    「長年の疑惑が氷解した」と大いに感激し、

    今後も教えを乞いたいと上機嫌で

    帰っていったのでした





    このことがきっかけで二人の親交が始まり、

    以後、長期に亘って良順は、

    新選組の良き理解者として、彼らを支え続けていくのです。




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    [・新選組「今日は何の日」] [コメント:2]
  • [2008/10/11/10:53][ ↑ ][ ↓ ]

  • 会津降伏の日

    会津の資料館に行くと、時々

    『泣血氈(きゅうけつせん)』
    という

    小さな赤い布ぎれを見ることがあります。





    これは会津戦争にまつわる品物です。





    1868(慶応4)年8月23日、母成峠の会津軍が敗れ、

    新政府軍が一気に会津城下にまで乱入しました。

    会津戦争最大の激戦の始まりです。






    会津軍は市街戦をくりひろげ、果敢に戦いましたが、

    次々と戦死者、殉難者が出るばかりの戦況です。

    もはや残された道はただひとつ。

    城下にろう城を知らせる早鐘が鳴り響きました。






    24日には新政府軍が鶴ヶ城を完全に包囲し、

    会津軍は長いろう城生活に入りました。






    各所に配置されていた会津藩士たちが、その後も

    城へと引き上げてきましたが、

    新政府軍の包囲を破り、城に入ることはできません。






    彼らは城外でのゲリラ戦を展開し、

    新政府軍を悩まし続けました。






    しかし、援軍の望みのないろう城は、

    ただ時間だけが過ぎていくばかりです。

    それでも会津軍は、ひたすら新政府軍に抵抗し続けました。






    冬の到来で戦いが長期化するのを恐れた新政府軍は、

    鶴ヶ城の東南にある小田山に大砲をすえて、

    城内に次々と打ち込み始めます。






    城内には負傷者、戦死者が続出しました。

    これにはさすがに抗えず、

    城内の地獄にも似たその光景に

    松平容保
    は、もはやこれまでと

    鶴ヶ城の城門に白旗を掲げさせるのです。







    ろう城から1ヶ月。

    1868(明治元)年9月22日
    のことでした。

    (ろう城中の9月8日に慶応から明治に改元されています)








    降伏の調印には松平容保・喜徳公父子が出席しました。

    式場には緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ、

    その上で(逆賊扱いの)降伏の調印を行ったのです。






    式の後、会津藩士たちはこの日の無念を忘れぬようにと、

    涙ながらに、その場の緋毛氈を切り刻み

    持ち帰ったといわれています。

    その赤い布ぎれが、冒頭の『泣血氈』なのです。





    会津藩士たちは、この赤い布ぎれを見るたび

    その日の無念を思い出したことでしょう。

    資料館でこの『泣血氈』を見ると

    その思いが伝わってくるようにも感じられるのです。




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  • [2008/09/22/14:44][ ↑ ][ ↓ ]

  • 三条大橋制札事件の日

    新選組版「今日は何の日?」です




    1866(慶応2)年6月、徳川幕府は

    第二次長州征伐
    への出兵を各藩に発令しましたが、

    各藩の士気はあがらずじまい、戦況もかんばしくありませんでした。






    そんな最中に、将軍家茂が

    大阪城内で病死してしまいます(過去記事7月20日

    8月20日に喪が発せられ、結局長州征伐は

    宙に浮いた状態になってしまいました。
    (9月4日に征長軍解兵令発布)






    その影響もあったのでしょうか。8月28日の夜のこと。

    京都の三条大橋西詰の制札場の高札が

    何者かによって引き抜かれ、鴨川に投げ捨てられたのです





    それは長州の罪状を書き記し、

    潜入浪士を匿った者も同罪であるという内容の高札です。






    9月2日に再び同様の高札が立てられましたが、

    5日にはまた引き抜かれ、持ち去られてしまいます。






    10日に3回目の高札が立てられたとき

    その警護として新選組が見張りにつきました。







    新選組は30人余りを動員し、

    橋東詰の町家に1隊、高瀬通り西の酒屋に1隊、

    先斗町の町会所に1隊と配置し、

    2人の隊士を乞食に変装させて

    橋の下から制札場を監視させました。






    1日目、2日目は何事もなく過ぎました。

    そして3日目の夜、

    鴨河原の南から浪士8人が現場にやってきたのです







    彼らは制札場にさしかかると、ひとりが木柵に登り始めました。

    乞食に扮した隊士はそれを見るや、さっとその場を通り抜け

    待ちうけていた酒屋の新井忠雄ら12人と、

    町会所の原田左之助ら10人に報告。






    新井忠雄、原田左之助らがすぐ現場におもむき、

    大乱闘となりました。






    1866(慶応2)年9月12日
    (新暦だと10月20日)


    これが、三条大橋制札事件です。








    浪士ら8人はいずれも土佐の者たちでしたが

    新選組に取り囲まれ、藤崎吉五郎は斬殺、

    安藤鎌次は深手を負いながらも土佐藩邸に戻りましたが翌日自害。

    宮川助五郎は捕らえられました。







    あとの5人、

    松島和助、沢田屯兵衛、岡山禎六、

    本川安太郎、中山謙太郎はかろうじて脱出することができました。






    ちなみに、1回目の高札の投げ捨ては土佐浪士ではなく、

    十津川郷士、中井庄五郎らだったそうです。






    2回目も4人の浪士ということで

    土佐浪士か、さだかではありません。






    3回目の彼らは、

    運がなかったというしかありませんね^^;






    一方新選組側は、この事件の働きを大いに評価され、

    後日会津から報奨金を与えられるのです。





    その話はまたの機会に…^^




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  • [2008/09/12/11:21][ ↑ ][ ↓ ]

  • 葛山武八郎処罰の真相

    局長近藤勇が

    将軍上洛の建白書の提出と隊士募集を行うために、

    永倉新八や武田観柳斎らと共に

    江戸へと向かった翌日のこと。





    一人の隊士が切腹しました。

    その名は葛山武八郎





    実は近藤たちが江戸へと旅立つ前、

    ある事件があったのです。





    それは、最近の近藤勇の態度が傲慢すぎると

    幹部である永倉新八らが、

    近藤の非行5カ条をしたため

    預かりの会津藩藩主、

    松平容保に提出するというものでした。





    その建白書に明記された隊士の中に

    永倉新八、斎藤一、原田左之助、

    尾関雅次郎、島田魁と共に

    葛山武八郎の名がありました。






    結局その時は松平容保の取り成しで、

    近藤と永倉らの和解が成立し

    事なきを得ることができましたが、

    ひとつ間違えば大惨事にもなりかねない事件に

    発展するところだったのです。






    近藤が留守の間、

    新選組の全権を委ねられていたのは

    副長の土方歳三です。





    彼は近藤の留守の間、隊士たちのタガが緩まぬよう、

    というより、

    近藤や永倉たちがいないのを見計らうかのように

    隊内の締めつけを図りました。





    烏合の衆ともいえる新選組は

    今後隊士の増員もあり、

    より一層の団結力が必要です。





    にもかかわらず、永倉たちのとった行動は

    今後どのような隊内の不穏分子として

    成長するかわかりません。





    さすがに幹部全員を処断するのは

    今後の活動に支障をきたす恐れがあるため

    実行されることはありませんでしたが、

    事件の後始末はつけねばなりません。






    それならと、ある意味「みせしめ」として

    処断されたのが葛山武八郎だったようです。





    それが1864(元治元)年

    9月6日のことでした。







    葛山武八郎の切腹の理由は残されていません。

    「和解」という結果に不満を持ち、

    最後まで抵抗する意味合いから

    自ら切腹したとも言われています。






    でも事の真相は、

    前述のようなところだったのではないか、

    というのが一般的な解釈です。






    新選組という組織を守るためには、

    非情になることも厭わない

    「鬼の副長」
    と呼ばれる土方歳三の

    一面を垣間見た事件です。




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  • [2008/09/06/12:49][ ↑ ][ ↓ ]

  • 生殺与奪の土方歳三

    その日、土方歳三榎本武揚とともに

    軍議のある仙台城にいました。






    過日、会津で新選組本隊と別行動を取っていた土方は、

    援軍要請のため米沢に向かう前桑名藩主

    松平定敬
    に同行することになります。






    しかし、米沢に到着してみると、

    米沢藩はすでに恭順姿勢へ傾倒し始めており、

    また庄内藩にも援軍の見込みがもてないとの情報を得て、

    仙台に向かうことを決意します。






    こうして仙台に着いた土方は、

    仙台城での奥羽列藩同盟の軍議に

    出席することとなりました。






    軍議では、榎本武揚土方歳三

    同盟軍の総督に推挙しました。

    諸藩の代表もこれに賛成します。






    榎本は別室にいた土方を呼び入れ、

    その旨を告げました。

    すると土方は、






    「総督に就任する以上、全権を委任していただきたい。

     もし、万一総督の命に背くものは、重役なりとも斬るが、如何か?」







    と生殺与奪権(せいさつよだつけん)を主張したのです。







    それでも、一同賛成の気配ではありましたが、

    ひとり、二本松藩の代表から







    「それは藩主の専権であって、

     藩主の許可がなければ委任できかねる」







    との意見が上がり、一同に動揺が走ります。






    それを見た土方は、

    席を立ち部屋を出て行きました。






    1868(明治元)年9月3日のことだったといわれています。

    (新暦だと1868年10月18日)





    このとき同盟藩の一部の藩には、

    恭順のころあいを見計らっていた感もあり、

    結局、土方の総督の話は立ち消え、

    列藩同盟自体も崩壊していきます。







    この軍議の数十日後には仙台藩までもが、

    敵地になりつつありました。






    榎本武揚率いる旧幕府軍は、

    蝦夷へ渡る決意を固め、

    仙台から松島方面へ移動し始めるのです。





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  • [2008/09/03/10:46][ ↑ ][ ↓ ]

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