迷惑な入隊志願者

  • 2013/10/07(月) 00:09:08

すごく久しぶりですが、

新選組版・今日は何の日です





これは、新選組局長・近藤勇が京を離れ、

江戸に戻っている頃のことです。





近藤が江戸に戻っていたのは、

将軍上洛を要請する建白書の提出と、

東国出身の新しい隊士を募集するという目的からでした。





でもそれとは入れ違いに、

土方歳三が留守を預かる京都の新選組に、

2人の若者が多摩から訪ねてきたのです。





それは1864(元治元)年、10月7日のことです。
    (西暦に換算すると11月 6日)






その2人とは、

松本延三郎の息子・元太郎(松木村の元太郎とも)と、

小林重太郎で、どちらも近藤勇の門人だと名乗ります。






土方が2人を見て苦い顔をした理由は、

入隊希望と言いながら、刀も差していない容姿だったことと、

近藤・土方を、気安く呼び捨てにしていたからです。






同年の6月、新選組は池田屋に討ち入り、

多くの不逞浪士を殺傷・捕縛しました。

また7月の「禁門の変」でも、幕府の一部隊として参戦しています。

今や「新選組」の名は、天下に知れ渡っていたのです。





泣く子も黙る新選組の局長に、こんな知り合いがいることは、

体裁が悪いばかりではなく、隊の面目も立ちません。





どうしたものかと途方にくれたようですけど、

たぶん、早々に2人には多摩へ帰ってもらったことでしょう





そして「二度と、このようなことがないようにしてもらいたい」と

念を押すように、江戸にいる近藤勇と、

日野の名主で義兄でもある佐藤彦五郎宛へ

手紙を書いたのでした。


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横倉甚五郎の命日

  • 2012/08/15(水) 00:11:03

新選組版、今日は何の日 です。



横倉甚五郎は、

土方歳三や井上源三郎のふるさと・日野市の隣りにある

八王子市堀之内の出身です。

天然理心流の門人でもありました。






彼は1864(元治元)年、

近藤勇らの東帰の際に行った隊士募集に応じて、

新選組に入隊しました。






油小路の変(伊東甲子太郎ら暗殺)では、

大石鍬次郎らと共に現場に出動しています。

その後に起こった伏見墨染の近藤狙撃事件にも

遭遇しました。







1868(慶応4)年1月の鳥羽・伏見の戦いの際には、

土方歳三らと共に参戦します。

江戸帰還後も甲州勝沼、会津戦争を経て、

けっきょく蝦夷地へも渡り、箱館戦争にも参戦するのです。






箱館戦争の終焉・五稜郭降伏の前に、弁天台場が降伏した時、

甚五郎は台場にいましたが、そのまま当地で謹慎となりました。






しかし坂本龍馬ら暗殺の嫌疑をかけられ、

同嫌疑で護送される元見廻組・今井信郎らと共に、

東京に送られ取り調べられることになるのです。






獄中では坂本龍馬暗殺について、

「何も知らない」と暗殺を否定し続けます。

しかし、その投獄の地で

とうとう命果てることになりました。





1870(明治3)年8月15日


(新暦に換算すると1870年9月10日)

それは弁天台場降伏後、1年以上も経った日のことです。

享年37歳。






甚五郎の墓は、現在八王子市鑓水の大宝寺にあります。

昭和51年の秋に横倉家で建てられた供養墓で、

今もご子孫によって、手厚く供養されています。





弁天台場で謹慎の際に詠んだという

彼の辞世の句が残っています。

義をたて つくせしことも 水の泡

   打よす浪に消て ながるも
」 




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御前稽古に出られなかった人

  • 2012/04/06(金) 00:15:46

久しぶりの新選組版「今日は何の日?」です





文久3(1863)年の3月15日に、

壬生の浪士組(残留組)は、正式に会津藩のお預かりとなり、

4月16日には会津藩に招待されて、容保様に御前稽古を披露しました。

きっと呼ばれた者はみんな、希望に胸を膨らませたことでしょうね。





でも、残留組になったにもかかわらず、

希望を見出す間もなく、亡くなってしまった隊士もいます。

その人の名は、阿比留鋭三郎(あびる えいざぶろう)。

(阿比留栄之介、阿比原栄三良、阿比留栄三郎とも)

元対馬藩の人です。






彼は北辰一刀流を、

千葉栄次郎(千葉周作の次男)の元で修行しています。

浪士組に加わろうと思ったのですから、

それなりに腕にも自信があったはず。






浪士組に参加したときは、三番組隊士として上洛。

その後、浪士隊が分裂すると、

清川八郎の率いる本隊と共には江戸へ戻らず、

残留組として京に残ったのでした。






希望を見出そうと京に留まったのか、

それとも病の身で、もはや旅することもできなかったのか。

けっきょく彼は、まもなく死去します。

それが文久3(1863)年4月6日でした。(新暦だと5月23日)

※3月25日の死亡説もあり







彼の死因は病死だといわれていますが、

殺害されたともいわれています。その辺はよくわかりません。

享年21歳(23歳とも)というと、あまりにも若い死です。

病気だったとしたら、沖田総司のように労咳とも考えられますね。






そういえば、大河ドラマ「新選組!」では、

阿比留の枕元に「虚労散薬」が置いてありましたね。

あの薬は労咳の薬なので、ドラマの中では阿比留は

労咳(=結核)という設定だったようです。

ドラマ中、ひとり病気治療のために江戸へ帰る阿比留鋭三郎。

彼の背中が、やけに痛々しく感じましたね





阿比留を演じていたのは、カルテカの矢部さんでした。

弱々しいイメージが病身役にピッタリでしたね。

阿比留が映像に登場するのはめずらしいので、

今でもよく覚えています。





実際の阿比留鋭三郎は江戸に帰ることもなく、

遠い京の地で亡くなったようです。

阿比留鋭三郎の遺体は壬生墓地に埋葬され、

現在 墓石は壬生寺にあります。


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会津藩からの招待状

  • 2011/04/15(金) 00:04:55


新選組版 「今日は何の日?」です





1863(文久3)年4月15日

(新暦に換算すると1863年6月1日ですけど^^;)





この日、壬生の浪士たちの元に

1通の手紙が届きました。





彼らは江戸から京都へやって来た浪士組のうち、

すぐに江戸へ戻らずそのまま壬生に残っていた

芹沢鴨や近藤勇ら、残留組です。






その手紙は京都守護職である会津藩からのものでした。

「藩主・松平肥後守容保が

 壬生浪士たちに会いたいので来るように」

との内容でした。







大藩の藩主が、一介の浪士達に直接会いたいとの仰せ、

しかも隊士全員で来るようにとの話に、

浪士たち一同、胸躍る思いだったでしょう。






明日九つ時(正午)までに 黒谷(会津本陣)へ……







その言葉を繰り返し、

翌日の訪問への期待に、なかなか眠れなかった隊士も

もしかしたら、いたかもしれません







さて、松平容保に謁見した彼らは

どうなったのでしょうか?

それは、こちらでお確かめ下さいね

  翌日の話  ⇒  御前稽古、披露の日
(過去記事です)


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甲陽鎮撫隊、進軍の日

  • 2011/03/01(火) 12:37:47

久しぶりに、新選組版「今日は何の日?」です



慶応4年という年は、正月から

鳥羽・伏見の戦いで始まり、旧幕府軍の敗戦、

徳川慶喜の大阪城脱出・江戸での謹慎と、

あわただしい日々の連続でした。




新選組はといえば、敗戦した大阪より船を利用し、

近藤勇や怪我人を乗せた富士山丸は横浜経由で品川へ、

他の隊士たちは順動丸で直接品川へと向かいました。




そして品川釜屋でしばらく逗留の後、

鍛冶橋門内の元若年寄 秋月種樹(たねたつ)の役宅に移り、

そこを江戸の屯所としてようやく落ち着くことができたのです。




その頃、新政府軍は東海道と中仙道の二手に分かれ

江戸へと向かっていましたが、2月29日には

もう諏訪付近までやってきているとのこと。




甲州では農民の一揆や、博徒の横行が頻発し、

治安維持のためにも鎮撫の部隊が必要でした。

そこで新選組にその任務が当てられたのです。




しかし、一方では江戸城を無血開城させようとしていた

勝海舟がその話をスムーズにさせるために、

血の気の多い新選組を江戸から排除したとか、

相手への脅しに使ったとか、などともいわれています。




本来の目的はどうだったのか、真の意味を知ってか知らずか…

かくして新選組は幕命により、近藤は大久保大和守剛、

土方歳三は内藤隼人と名前を変えて、

甲陽鎮撫隊として甲府城へと向かったのでした。




それが慶応4(1868)年3月1日 のことです。
(新暦に換算すると1868年3月24日)




行軍には京都以来の新選組隊士の他に、

浅草弾左衛門の配下を加えた総勢約200人と、

大砲2門と小銃500挺、軍資金5000両(それ以上とも)を携えて、

出発します。




ところが、出発してまもなくの内藤新宿で

進軍をやめて早くも宿陣

烏合の衆のような この集団が、

甲府城に入るのは いつのことなのか?

先行き思いやられる行軍でした。



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ふるさとからの珍客^^;

  • 2009/10/07(水) 11:13:07

ひさしぶり新選組版「今日は何の日?」です。





1864(元治元)年10月7日。






近藤勇が新入隊士募集のため江戸へ戻っている間、

新選組の留守を預かっていたのは、

もちろん副長の土方歳三






その彼の元へ、

ふたりの男が、ひょっこり訪ねてきました





彼らの名前は、松木元太郎小林重太郎

ふたりは近藤勇の門下だと名乗り、

わざわざ多摩からやってきたのです^^;





彼らの目的はただひとつ

馴染みの近藤勇や土方歳三たちのいる新選組で働きたい!







池田屋での近藤らの活躍を聞いたのでしょう。

「あの歳さんらが働いているんだから、俺達だってできるはず」

とまで思ったかは定かではありませんけど、

新選組に入隊しようと思い立って、

京都までやって来たのでした






でも入隊希望にもかかわらず刀も腰に差さず、

そのくせ、近藤や土方と

多摩の知り合いだとばかりに振舞うその様子。





「鬼の副長」
で鳴らした土方としては、

他の隊士に示しがつきませんよね。

「隊士たちの前で思いっきり恥をかいた」


後でぼやいています。





結局彼らは入隊を許されず、多摩に戻ったようです。




そのときは、やれやれと土方も思ったでしょうけど、

再び、同じような輩がやってきてはたまらない




そう感じた土方は、早速その日起こった出来事を

江戸にいる近藤宛の手紙にしたため、





「今後こういう輩が来ることがないように」

と、いとこで義理の兄でもある

佐藤彦五郎に釘をさして貰ったのでした。





その後、多摩から入隊志願者が

京都まで押しかけることはなかったようです。(一応ね^^;)


※ちなみに捨助が入隊志願にやって来たのは
 その前年のことですよ〜^^

過去記事 ⇒ 捨助がやって来た!



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大和屋焼き討ち事件の日

  • 2009/08/12(水) 17:24:24

大阪力士との乱闘事件から、和解。

そして京都で相撲興行が行われた話は、前回の通りです

過去記事
⇒ 相撲興行開催の日




その興行が祇園北林から壬生へと

会場を移した1863(文久3)年8月12日の事。





芹沢鴨
は30人余りの隊士を連れて、

中立売通り霞屋町にある生糸商大和屋に行き、

その土蔵数個を焼き討ちしたのです。






それは

『大和屋が生糸を買い占め値段を吊り上げて、

 私腹を肥やしているのを懲らしめるため』


というのが建て前





でも本当は

『天誅組に軍資金を渡したことを芹沢が知り、

 同様に浪士組にも軍資金を出させようとしたところ、

 断られたことを腹いせに行った』


ともいわれています






土蔵の中にある、生糸や道具類などを

連れてきた隊士たちに片っ端から路上に出させ、

周囲の野次馬たちが見ている前で、焼いたのでした。

もちろん土蔵もボロボロに。






折角、近藤たちが相撲興行で上げた評判も、

この出来事で完全に落としてしまったことは

想像に難くありません。






あるいはそれが、芹沢鴨の

本当のねらいだったのでしょうか…?





新選組全史(上)』著者の菊地明氏によれば、

実は壬生で行われた2日間の相撲興行で得た収入は、

壬生浪士組への収入になったらしいのです。

ですから、観客が多ければ多いほど、

浪士たちにとってはありがたかったわけですね。







祇園北林でも浪士たちは一生懸命

会場の警備にあたっていましたが、

壬生では張り紙をしたりなど

より一層、集客に力を入れたのです。





ところが、それが

芹沢鴨を怒らせてしまったようです。





集客して得たこの収入は、

相撲観覧という商売によるもの。

「商売=商人がすること」であって、

けっして武士のすることではない





恥ずべき行為を平気で行う馬鹿者どもがっ!


という心境だったようです。





江戸にいた頃、

出稽古で収入を得ていた試衛館メンバーたちには

特に抵抗もなかったこの所業が、

芹沢にとっては許せない行為だったわけですね。





つまり大和屋焼き討ちは、近藤らへのあてつけ、

あるいは、この怒りのはけ口だったとも考えられるのです。





結局この焼き討ちは夜通し行われ、

芹沢たちは翌日戻ってきました。




でもこの所業が会津藩の耳にも届き、

芹沢自らの死を、決定づけることにもなったのです。


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相撲興行開催の日

  • 2009/08/07(金) 11:13:00


文久3年6月3日に起こった、大阪力士との大乱闘については

以前にお話しましたよね

その時の記事
⇒ 大阪力士と大乱闘の日





後日、和解の席が設けられ、

その席で力士側は壬生浪士組に

「京都力士との合同相撲興行を京都でやりましょう」

と約束したのです。







それが1863(文久3)年8月7日に実現しました






その日は曇り空ではありましたが、

壬生浪士たちは木綿黒紋付をはおり、白縞袴をはいて、

熱心に観客たちを、誘導整理していたようです。






普段の暴れん坊ぶりは、この日ばかりは感じられず

始終、行儀よくしていたそうですよ^^

巷の評判も、少しばかり回復したかもしれません。






慣れない誘導整理など、その光景を想像すると

チョッと滑稽さまで感じられますけど、

彼らにしてみれば真面目そのもの。

みんながんばったんだろうな〜と思うと

微笑ましくもありますよね。






町の人たちに恐れられ、

蔑まれていたかもしれない彼らですが、

この日は浪士も観客も一体となり、

相撲観戦に盛り上がったことと思います。





次の日は晴天。

この日も盛況だったことでしょう。






結局、興行は祇園北林で5日間行われ、

あとの2日は壬生でおこなわれたようです。






でも、この壬生での2日がいけませんでした

それまで、陽気に振舞っていた芹沢鴨が、

壬生での興行を知ると態度を一変。






それは、ある大変な事件を引き起こすことになるのです。

その事件とは?

8月12日に続きます。。。。


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ある美剣士の明と暗

  • 2009/08/02(日) 14:29:08


1863年(文久3)年4月16日。


壬生浪士・佐々木愛次郎は、

会津藩の本陣である黒谷にいました。





この日、彼らの預かり主である、

会津藩主・松平容保に呼ばれ、

芹沢鴨や近藤勇らと共にやってきたのです。





容保の所望により壬生浪士たち(のちの新選組)は、

御前稽古を披露することになりました。

そのとき、沖田総司や土方歳三らの剣術の後、

柔術を佐々木内蔵之丞とともに披露したのが、

佐々木愛次郎です。





この日の彼らの喜びは想像に難くありません。

もちろん愛次郎も、これからの未来を信じ、

希望に燃えていたことと思われます。





愛次郎は、大阪の錺(かざり)職人のせがれです。

その彼が剣術修行の末、やってきたのが浪士組。

彼なりに希望を抱いてやってきたのでしょう。





剣の腕前もなかなかでしたが、

隊内きっての美男子でもあり、

隊中美男五人衆
に数えられた人でもありました。




その愛次郎が斬殺されたのが、

1863(文久3)年8月2日
のことです。




千本通りあたりで、男女ふたりが斬殺されているのを

翌朝発見されたのです。




最初、殺されたのは

二条城内の者と思われていましたが、

その後の調べで壬生浪士組の

佐々木愛次郎とわかりました。




子母澤 寛氏の「新選組物語」によれば、

因幡薬師の境内で、当時めずらしい

トラやオウムの見世物小屋が立ったとき、

芹沢鴨に伴われやってきた浪士たちのなかに

愛次郎もいたようです。





見世物小屋で、香具師(やし)に

言いがかりをつける芹沢に向かい、

香具師と一緒になって謝り、とりなしたのが彼でした。





それに感謝した香具師の親方が縁で、

親方の弟が商いしている八百屋に顔を出すようになり、

その店の評判の町娘あぐりと愛し合うようになったのです。




しかしそのことが、芹沢や同僚の

佐伯又三郎の知るところとなりました。





佐伯は「芹沢があぐりを差し出せといっているから逃げろ」

と愛次郎をそそのかし、彼を脱走させました。

しかし、二人の逃亡を途中で待ち伏せし、

行く手を遮ったのは、この佐伯又三郎だったのです。






佐伯は愛次郎を斬殺すると、

あぐりを自分のものにしようと襲い掛かりました。

しかしあぐりは自ら舌を噛み切り、佐伯を拒絶したのです。





後日、当夜の佐伯の所業を芹沢が知り、

佐伯は愛次郎の死と、あまり日をおかずに、

同じ場所で殺されることになるのです。





この話が真実かどうかはわかりません。

でも愛次郎が御前稽古の場にいたことと、

千本通りで斬殺されたことは真実のようです。





希望に燃えたあの4月16日から、

半年も経たない8月2日の、愛次郎の「明」と「暗」




美剣士ゆえに、より一層の

悲哀が感じられる気がします。

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ある隊士が粛清された日です

  • 2009/06/22(月) 10:46:19

新選組版「今日は何の日」です。



まずは「なぞなぞ」から。。。




権力のあるものには媚びへつらい、

    部下には高慢な態度をとったといわれる
           
                 新選組隊士はだぁれ?





さて、あなたは即答できますか?

そうです。武田観柳斎(かんりゅうさい)です





昔も今も、上役に媚びて

部下には、ねちっこくいびるような人は好かれませんよね。

それでも本人に実力があるうちは、周りも従わざるを得ませんけど





観柳斎も最初の頃は、甲州流軍学を修めたキャリアと、

武術第一主義の隊中での数少ない文学指導者として、

新選組の中で重んじられていました。





慶応元年の近藤勇広島出張には、

近藤の補佐として、観柳斎も同行しています。

その頃が彼の絶頂期だったわけですね。





でも慶応3年、幕府でフランス軍人による

洋式訓練を取り入れ始めた頃から、

新選組でも古い兵法は軽んじられ、

自然、観柳斎の身の置き所もなくなってきました。
(イヤな奴だったしね…邪険に扱われたのでしょう






そんな理由からか、その後観柳斎は除隊します。(脱走とも)

そのまま京都からいなくなればよかったのですが、

新選組を抜けた後も、独自に勤王活動を行い、

やがて仲間を集めて倒幕活動を始めようとしたため、

新選組によって粛清されました。





それが、慶応3(1867)年6月22日のことです。





子母沢寛
著の「新選組始末記」では、

観柳斎が薩摩藩邸から出てくるところを

新選組隊士に目撃されたことになっています。





新選組幹部列座の「観柳斎送別の酒宴」が開かれ、

その後「薩摩藩の伏見藩邸まで送りましょう」と、

斎藤一と篠原泰之進に連れられ、伏見へと向かいます。





途中、竹田街道の銭取橋付近にて

ふたりに斬られるわけですが、

もしこれが事実だとしたら、

道中生きた心地がしなかったでしょうね。
(結局、斬られてしまいましたけど^^;)







新選組にいるときに、

もう少し人望厚き上司になっていたなら、

観柳斎の運命も変わっていたのでしょうか?





「人のふり見て我がふりなおせ」と申します。

観柳斎のような上司にならないように

お互い気をつけましょうね


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井上松五郎送別の宴

  • 2009/06/10(水) 10:35:02

新選組版「今日は何の日」です




1863(文久3)年3月。
徳川家茂が、

将軍としては230年ぶりに上洛した際のこと。

源三郎の兄、井上松五郎八王子千人同心のひとりとして

将軍警護のため、その一行に同行していました。





将軍らは在京中、

攘夷問題で朝廷と交渉を続けていましたが

なかなか進行せず、6月になってやっと

江戸帰還の運びとなり、船で江戸へ戻るため

6月9日、大阪へと下ります。





11日。家茂は乗船し無事江戸へと出立しました。

八王子千人同心たちは、将軍の船を見送った後、

東海道を江戸へと戻ることになります。





その前日のこと。

井上松五郎の帰郷に際し、

大阪で送別の宴がありました





在京中に松五郎は、

新選組内で起こったトラブルについて、

土方歳三
井上源三郎らに幾度となく

相談を持ちかけられているんですね。
(傲慢になった近藤のこととかね…^^;)






そんな相談役とも言うべき松五郎に

お世話になったお礼も兼ねて、

近藤と芹沢から酒一升が餞別として贈られたようです





それを受けて夕方から、

浪士取締りの件で大阪に下っていた隊士らと

土方、佐伯が合流し送別の宴となりました。
(参加メンバーは一説による)





それは1863(文久3)年6月10日のことです。




懇意にしていた近藤・土方らはもちろんのこと、

芹沢や平山ら、芹沢派も交えての宴会です。

よほど松五郎さん、近藤派のみならず

新選組の内々のことまで相談されていたようですね。




この日、芹沢鴨は特に問題を起こすこともなく、

松五郎は彼らと思う存分、別れを惜しむことができました。




そして翌日、井上松五郎は他の千人同心たちと共に、

江戸の帰路についたのです


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大阪力士と大乱闘の日

  • 2009/06/03(水) 10:43:33

新選組版「今日は何の日?」です




1863(文久3)年6月に入ってすぐ、

大阪から、不逞浪士が横行して困っている

との知らせが壬生浪士組へ届きました。





それを受けて浪士組では、近藤勇・芹沢鴨・

山南敬助・沖田総司・永倉新八・斎藤一・

井上源三郎・島田魁・平山五郎・野口健司
の10人が、

大阪へと向かいます。





2日に大阪入りした彼らは翌日早朝、

浪士2人を捕縛。見事任務を成し遂げました。
(ここまでは優秀^^)






さて、その日はとても暑い日だったようで、

早々に任務を終えた彼らは、舟遊びをしようと思い立ちました。

夕方、近藤と井上を除く8人が八軒家から川を下り、

涼を楽しみます






途中、斎藤一が腹痛を訴え、一同は下船することにします。

そこから北新地へ繰り出そうということになったようですが…^^;

そこで、チョッとしたトラブルがありました。






難波小橋で、向こうから来た力士と

道を譲れ譲らぬの言い争いを起こすのです。

力士の傲慢な態度に、芹沢鴨が我慢できず

相手を殴り倒しました。

そのまま浪士たちは歩き始めます。






しばらくして再び力士と遭遇し

同じような言い争いとなりますが、

今度は全員で相手を押し倒します。






ようやく北新地の住吉屋に着き、

一同大いに楽しんでいたところ、表がにわかに騒がしい様子。

見ると先ほどの仲間らしい力士たちが20、30人と

店の前に群れています。

どうやら、仲間の仇を討ちに来たようです。






たちまち芹沢が刀をとり、外へと飛び出していきました。

もちろん、他の隊士たちも芹沢に続きます。

あとはもう敵味方入り乱れての大乱闘です^^;






それは、1863(文久3)年6月3日の出来事でした。






ちなみにご承知の通り、

浪士たちはみんな腕に覚えのある猛者ばかり。

力士たちの手には、到底負えるはずもありません^^;






熊川熊次郎が死亡し、3人が重症。

他の力士も大勢が斬られ、さんざんな目にあったのです。

一方浪士組のほうでは、沖田が頭部、平山が胸を軽く打たれ、

永倉は島田の刀の切っ先が触れて軽症をおったくらいで、

たいしたことはなかったようです。






しかし、そのままにしておくこともできず、

話を聞いた近藤勇が、すぐさま町奉行に出向き「口上覚」を提出。

最終的には、力士側が詫びを入れる形で話は収まったのでした。





浪士の取締まりのために、わざわざ大阪まで来たのに、

こんな騒ぎを起こしてしまって、よかったのでしょうか?

どちらにしても、壬生浪士組の存在は大阪の人々に

この時強く焼きつきましたよね!





その後、この事件が縁となり、

壬生で相撲興行が行われます。

でもそれが幾つかの波紋を生じるわけですけど…





その話は、また後日といたしましょう



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土方歳三、会津城下入りの日

  • 2009/04/29(水) 12:18:31


新選組版「今日は何の日」です



1868(慶応4)年4月19日、

宇都宮城を陥落、占拠した土方歳三ら旧幕府軍でしたが、

その後の新政府軍からの猛攻撃により、城は奪われ、

その攻防戦の最中、土方は銃弾により足指を負傷します。





その後、土方は今市まで移送され、

山王峠を越え大内宿を通り、会津若松城下に入ると、

七日町の清水屋
にひとまず体を落ち着けることになりました。




それは、1868(慶応4)年4月29日のことです。




先に会津入りしていた医師・松本良順の

治療を受けていた清水屋の土方の元へ、

旧幕臣の望月(富岡)光蔵らが見舞いに訪れました。





彼らは先行して江戸を脱出していて、

同じ七日町に逗留していたようです。





その初対面の望月に対して、土方は

「汝等吾レ与セヨ (お前達、我々と一緒に戦いたまえ)」


と高飛車な物言いをしたといいます。




それに対して、少なからずムッとした望月は

「生来の文官だから、実戦をする気はない。

 ここで会津藩の補給関係の実務にあたるつもりだ」

と答えて立ち去ろうとしました。





そこへすかさず、

「会津まで志を立てて来たくせに、臆病なことだ

と土方が言ったものだから、もう売り言葉に買い言葉^^;





望月もはき捨てるように

「宇都宮城を敵に奪い返されたのは

 (お前が)臆病だったからではないのか」

と言ったのです。






その言葉に土方は

「これ以上お前達の言い分を聞いていたら、

 病(怪我の具合)が悪くなる。出て行け!」

と言って、枕を投げつけたそうです^^;





足の怪我がなかなか治らず、思うように事も運ばず、

彼もイライラしていたのでしょう。

土方さんのお気持ち、お察しいたします。




しかし、いらぬとばっちりを受けたのは望月光蔵たち。

彼らの記憶には



「土方歳三は態度の傲慢な、嫌な奴っ!




と植えつけられ、子々孫々にまで語り継がれたということです。

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御前稽古、披露の日

  • 2009/04/16(木) 10:48:13

その日は彼ら壬生浪士組にとっては、夢のような、

でも忘れられない日だったに違いありません





壬生に住処を落ち着けた芹沢鴨や近藤勇ら浪士組が、

ひとまず会津藩のお預かりになったのは

1863(文久3)年3月15日のこと。





それから一ヶ月ほどが過ぎ、特に大きな事件は起こらず、

洛中の警備に当たっていた彼らの元へ、

預かり主の会津中将松平容保から、隊士全員

本陣のある黒谷へ来るようにとの連絡があったのは

4月15日のことでした。





会津中将様からの直接の要請に、一同は翌日、

不安と期待を胸にしながら、黒谷を訪問したのです。




1863(文久3)年4月16日。




一介の浪士に過ぎない彼らが、

大名である松平容保に拝謁できたという喜びは、

想像に難くありません。

しかも容保様は彼らの腕前を見たいと

御前での稽古まで所望したのです





ここで自分たちの腕を認めてもらえたなら、

会津藩は彼らに期待し、今後の活動もスムーズに運びます。

でも反対にしくじれば失望され、

下手をすれば指揮下からもはずされ、

再び路頭に迷うことにもなりかねません 





彼らは、自分たちの将来をかけて、

ベストな人選で稽古披露に臨んだのです





さてその対戦の組み合わせは、こちらですよ
          
           

1.藤堂平助  ×  土方歳三
2.永倉新八  ×  斎藤一
3.平山五郎  ×  佐伯又三郎
4.山南敬助  ×  沖田総司




なんと羨ましい組み合わせなのでしょう

その場にいて、一緒にじっくり見ていたかった

と思うような人選ですよね!





最初はウォーミングアップのような、藤堂×土方の立合いで始まり、

次に永倉×斎藤の息をもつかぬ迫力の対戦を披露する。

そしてしっかり(ちゃっかり)最後は、

山南×沖田の天然理心流で閉める!(山南も天然理心流やってます^^)

この辺の人選は土方の案でしょうかね?(そんな気がします^^)





その後、川島勝司の棒術と、

佐々木愛次郎×佐々木内蔵之丞
の柔術へと続きます。




もちろん、松平容保様は

彼らの稽古を見て、しごくご満悦。

その後、酒の接待もあったようで、みんな上機嫌。

浪士組の自己アピールは、こうして大成功に終わったのでした。




彼らにとっては、本当にステキな1日でしたね〜

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今日は島田魁さんの命日です

  • 2009/03/20(金) 15:47:17


新選組版「今日は何の日?」です

島田魁
のお話は、魁さんの誕生の日にも

お伝えしました。

⇒ 「島田魁 誕生の日」





新選組に入ってからの彼は、

新選組の歴史に残る事件のほとんどを経験しています。

「池田屋事件」「禁門の変」「伊東甲子太郎暗殺」

「油小路事件」「近藤勇襲撃事件」「鳥羽伏見の戦い」…






そして、箱館戦争――――




箱館戦争降伏後は、

一時、箱館・称名寺に収容されますが、

その後、名古屋城内にお預けとなりました。






明治6年に放免になると、妻子のいる京都に戻ります。
(新選組時代に結婚してます)






そこで、雑貨屋を始めますがうまくいかず、
(巨漢すぎてお客が怖がったらしい…^^;)


仏具屋の店員、剣術道場開業師範を経て、

縁あって西本願寺の夜警を勤めることになるのです。





ところで魁さんは、身長6尺(約182センチ)、

体重45貫(約169キロ)の巨漢ではありましたけど、

みかけに寄らず、すごい甘党だったそうですよ






なんでも鍋一杯にお汁粉をつくって、

しかもお砂糖をたっぷり入れ、

納豆のように糸が引くくらい、よく煮詰めたのを、

ひとりで全部食べてしまったそうなんです





体が大きいからよく食べる、といっても

誰も食べそうもないほど甘すぎるお汁粉を

平気で平らげる魁さんは、やはりツワモノですよね




でも、とても親しみの持てる御仁でもあります

その反面、純粋すぎるほど一徹な面も持っていますよ。




明治も十数年経った頃。

京都にいる魁さんの所に、ちょうど京都滞在中だった

旧幕府軍箱館総裁、榎本武揚からの使いが来ました。




それは

「五稜郭以来の旧交を深めたいので、宿まで来て欲しい」

というものでした。





しかし、魁さんは

「会いたければ、向こうから訪ねてくるのが筋というものだ」

と言って、榎本の依頼を拒否したのです。





魁さんの旧幕府軍(=新選組時代の旧友)への思い入れは強く、

明治政府から幾度となく出仕の誘いの話もきていましたが、

どれも応じることなく、

終始西本願寺の警備にあたります。





いくら降伏したとはいえ、おめおめと

敵方の禄を得て生きることに、

少なからず抵抗があったのでしょう。

新選組がなくなった後も、

彼の心の中にはいつも新選組があったように思います。





ある非番の日、西本願寺を訪れた彼は

そこで持病の喘息発作を起こし、

そのまま帰らぬ人となりました。




1900(明治33)年3月20日
享年75歳。

(新暦に換算すると4月19日だそうです)





彼は土方歳三の戒名を、

いつも肌身離さず身につけていたそうです。

新選組時代、土方からの命令をいつも忠実に実行していた魁さん。

それだけ、土方さんへの想い(=新選組への想い)

強かったんですね。




非番の日に西本願寺を訪問し、

そこで亡くなるといのも、魁さんらしい気がします。




新選組の歴史と共に過ごした島田魁。

新選組の主要メンバー(幹部)たちと共に、

忘れることのできない隊士のひとりです。


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