万願寺一里塚

  • 2012/09/17(月) 22:08:04

多摩の史跡案内  〜その33〜

          万願寺一里塚



かつて街道筋には「一里塚」というのがありました。

織田信長や豊臣秀吉が、一里(約4キロ)ごとに

築かせたのが最初だそうです。

※もっと古い説もあり







江戸時代になり、慶長9(1604)年に江戸幕府は

大久保長安に街道を整備させ、その際、

江戸日本橋を起点として一里ごとに塚を築かせ、

全国規模の一里塚が整備されました。

それは旅人の距離の目安として、大いに役立ちました。






甲州街道(甲州道中)も同じように整備されました。

青柳(国立市)辺りから「万願寺渡船場」を渡り、

「万願寺一里塚」を通って日野宿へと入り、

「日野台一里塚」を抜けて八王子に至る道です。






「万願寺一里塚」は日本橋から9里目、

そして「日野台一里塚」は10里目にあたります。




新旧のコラボ
新旧のコラボ posted by (C)ルンちゃん
まさか、頭上にこんな乗物が走るとは
昔の人は思わなかったでしょうね^^;




貞享元(1684)年に再度整備された時、甲州街道は

もっと川の上流になる「日野渡船場」を渡る道に変えられますが、

「万願寺渡船場」と「万願寺一里塚」は

その後も利用され続けました。






平成15(2003)年、

この「万願寺一里塚」の調査が行われました。

その結果、規模は一里塚の基準通りの約7〜8mの幅、

高さは約3mでしたが、道に沿って

少し楕円形になっていることがわかりました。

その他に、構築方法などもわかっています。






平成の現在、日野市で残っているのは「万願寺一里塚」だけです。

しかも一里塚は1対(つまり2個)あるものですが、

片方(南側)しかありません。道路拡張のためか、

もう片方は昭和43(1968)年に取り壊されて

しまいました。






塚の天辺には、一里塚によくみる「榎木」がありますが、

これは近年になってから植えられたものです。

昔ならこの榎木の下に、旅人がつかの間の休息を取ったのでしょう。






塚は小さな空間の中で、

そこだけ昔の面影を残しながら、今もたたずんでいます。

万願寺一里塚の説明板
万願寺一里塚の説明板 posted by (C)ルンちゃん
説明板には調査のことも書かれています。


(参考:万願寺一里塚掲示板)
 日野市万願寺2−38−5

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天然理心流 増田蔵六の墓所

  • 2010/05/06(木) 23:39:05

多摩の史跡案内  〜その32〜

          善龍寺 〜天然理心流 増田蔵六の墓〜



日野からやってきて、八王子の国道20号線(甲州街道)を、

秋川街道へと右折すると、すぐ左に見えてくるのが、

ここ善龍寺です。


善龍寺の境内
善龍寺の境内 posted by (C)ルンちゃん
5月の境内は緑が豊かです^^





もとは滝山城下にあったそうですが、

北条氏の八王子城移動とともに、寺も元八王子に移りました。

しかし、豊臣秀吉や彼に加勢する連合軍によって、

八王子城が落城してしまうと、寺もいっしょに荒廃してしまいます。






翌年の天正19年、本郷に移動し

日惺上人の尽力により復興して、今に至っています。






このお寺には、八王子の七福神(八王子は八福神^^)である

大黒様が安置されています。

『走大黒(はしりだいこく)』といって、

自ら各家庭に駆けつけて『福』を授けてくださるという

ありがたい神様ですよ。

RIMG0043
走大黒様 posted by (C)ルンちゃん
こちらが、走っている大黒様ですよ〜





元禄年間に日真聖人が、本堂庫裡・書院再建の発願をした際、

本堂から発見されたそうです。そのお姿が右足を一歩前に踏み出し、

まるで走り出すかのようにみえたので、「走大黒」と名付けられたそうです。





さてこの善龍寺は、天然理心流の高名な

増田蔵六
先生ゆかりの場所でもありますよ





増田蔵六先生は、

天然理心流二代目・近藤三助の弟子にあたり、

門弟の中で唯一、剣術の他にも

柔術・棍術の三術を修めた方です。





蔵六先生は、この八王子で道場を開き、

門弟は千人以上いたとか






天然理心流の資料も多数残されていて、

八王子で栄えた天然理心流を知る上では、

貴重な存在の方なのです






境内に入って最初に目に付くのが、こちらの

「増田蔵六翁之小伝」という、

友人や門友、門弟らが建てた碑です。

RIMG0047
「増田蔵六翁之小伝」の碑 posted by (C)ルンちゃん
本堂の横にありますよ。
これはお正月に撮った写真、
今は碑の上の木は青々しています





本堂に入れば、出入口右側の壁に、

2本の木刀が掲げられた

天然理心流の奉納額もみられますよ。





そして墓所へと足を運べば、増田家の敷地のひと隅に

ひっそりと増田蔵六先生のお墓が佇んでいます。


増田蔵六先生の墓碑
増田蔵六先生の墓碑 posted by (C)ルンちゃん


案内看板もなく、わかりづらいので見逃しがちですが、

墓石の前に「増田蔵六翁墓碑」という碑があるので、

それでなんとか判断できると思います。

(寺務所で聞けば親切に教えて頂けますョ^^)







近藤勇らとは活動をまったく別にする

八王子の天然理心流ですが、

多摩の地に根強く広く繁栄したこの流派を

肌で感じることができる場所として、

これからも訪れてみたいです


善龍寺の入り口
善龍寺の入り口 posted by (C)ルンちゃん

興栄山 善龍寺
八王子市元本郷町1−1−9

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西の地蔵

  • 2009/11/12(木) 10:45:56

多摩の史跡案内  〜その31〜

          西の地蔵 〜日野宿〜


日野宿、東の地蔵よりおよそ1?余り、

宿場の西のはずれに

「西の地蔵」
と呼ばれる地蔵堂があります。





ちょうどJR線日野駅前にある甲州街道から、

井上源三郎の墓のある宝泉寺の前を通り、

日野坂が始まろうとする坂下です。




その坂下の由来から、坂下地蔵とも呼ばれています





坂下地蔵堂の入口には、

元文2(1737)年に建立されたという

大きなお地蔵様2体と、小ぶりなお地蔵様6体が並んでいます。

赤い帽子と前掛けが鮮やかです


西の地蔵
西の地蔵 posted by (C)ルンちゃん




またお堂の中には青銅で造られた

地蔵菩薩坐像が安置されています。

正徳3(1713)年、江戸小舟町の井田八左衛門が

近郊の祈願者232人の協力を得て作ったといわれています。






お堂は江戸時代にあったものは、

明治の末の火事で焼けてしまいました。

今のお堂は昭和7年に建て替えられ、

近隣の自治体のご婦人達が守り続けています。





西の地蔵 お堂
西の地蔵 お堂 posted by (C)ルンちゃん





昔は、この坂下地蔵から日野坂を上がって

八王子や甲州方面へと進みました。

ここから先はしばらく人気も少なく、

幕末当時は追いはぎも出たとか





でも今はJR線の線路で遮断され、通ることはできません。





わずかにこのお地蔵様のいるお堂の周辺だけが、

当時を偲ばせる空間となっています。


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斎藤一諾斎の顕彰碑

  • 2009/11/06(金) 11:24:38

多摩の史跡案内  〜その30〜

          斎藤一諾斎の顕彰碑 〜清鏡寺〜

 

帝京大学八王子キャンパスのすくそばにある

清鏡寺(せいきょうじ)は、大塚観音とも呼ばれ、

人々に親しまれています。


091103-4
清鏡寺 posted by (C)ルンちゃん
清鏡寺のお堂。
燈籠とのぼりが印象的!





曹洞宗のこの寺は文禄元(1592)年開創といわれます。

でもそれより以前、天台宗としての庵もありました。




なんでもその昔、この地に一泊した

播磨の住人が、夢見に童子の導きを受けて、

それが縁で仏師運慶に観音像を彫ってもらったとか。

(はっきりとはわかりません^^;
 真意の程のわからぬ運慶作は日本中にあるらしい…)





その後、長寛2(1164)年に天台宗のお堂を建てて

その観音様を安置したのが、始まりともいいます。





この大塚観音は別名「御手観音」とも呼ばれています。

それは夢見に立った童子の手型を、

観音像を彫った際に一緒に彫ってもらい、

それをこの観音像の胎内へ納めてあるからだそうです。





この清鏡寺に、新選組隊士

斎藤一諾斉の顕彰碑
があります。

091103-1
斎藤一諾斉の顕彰碑 posted by (C)ルンちゃん
燈籠の影があってわかりづらいですが、
文字がずらりと書かれています。






斎藤一諾斎
は慶応4年3月の頃までは、

甲州都留郡強瀬村にある全福寺の住職でしたが、

近藤・土方率いる甲陽鎮撫隊に物資を提供するなどで、

全面協力をした人物です。





一諾斎は還俗(げんぞく)の後、彰義隊として参戦しますが、

その後、新選組に入り会津戦争に参加します。

そして仙台において離隊の後、明治政府に降伏します。




釈放後、土方の親戚である

日野の佐藤家に立ち寄ったりしていますが、

それが縁となったのか八王子で寺子屋を開くことになり、

地域の教育にあたるようになりました。




病気の為、一旦は甲州に戻りますが、再び八王子に赴き

明治7年12月18日、62歳で生涯を終えます。

彼はその時まで、終始地域教育の普及に尽力したのです。





そんな彼の教え子達、林福重や井上隆治らを中心として、

彼を称える顕彰碑が明治14(1881)年に

建てられました。





一諾斎の弟子の中には、新選組に関わりのある者も多く、

顕彰碑の裏には、




「日野 佐藤俊宣(彦五郎の長男)」

「石田 土方隼人(歳三の兄・喜六の長男)」

「上石原 近藤祐五郎(勇の娘婿・甥の勇五郎の誤字か?)」






などの名前もみられます。


091103-2
碑の表面 posted by (C)ルンちゃん
一行目に「一諾斎」の文字が読めます。




091103-3
碑の裏面 posted by (C)ルンちゃん
佐藤彦五郎長男と歳三甥の名前も
 



境内には、小さな滝もあり、

風情のある場所になっています。





そしてチョッと蛇足なんですけど、

この清鏡寺のお隣くらいに、天然温泉スタンド「観音の湯」

というのがあり、天然温泉の持ち帰りができます(有料)




「天然 温泉スタンド」と書かれた看板と大きな赤玉。

そして鉄塔が立っているので、それを目安に歩けば

清鏡寺も見つけ易いかもしれません





塩釜山 清鏡寺(大塚観音)
東京都八王子市大塚1278



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東の地蔵

  • 2009/11/02(月) 10:36:52

多摩の史跡案内  〜その29〜

          東の地蔵 〜日野宿〜

 

旧佐藤彦五郎邸のあった日野宿は、甲州道中(甲州街道)の

府中宿と八王子宿のちょうど間にあった宿場町です






すぐとなりに大きな宿場があったので、

日野宿はどちらかといえば、

川を渡る際の休息場として利用されていました。





宿場はおよそ1?余りで、京都のある西の方角を上として、

上宿・中宿・下宿の3つに分けられます。





中央の中宿にあったのが本陣ですよ






ちなみに、今ある旧佐藤彦五郎邸(現日野宿本陣)

最初の頃は脇本陣でしたが、大火の際に本陣が焼けたためか、

幕末くらいから本陣として使われたみたいです。

(はっきりとはわかっていないようですが…)







貞享元(1684)年以後に整えられた道は

日野渡船場
のあった「現・立日橋」から南に進み、

鍵辻になって西へと曲がり、日野宿に入ります。

そこが江戸から来た人たちの宿場の入口だったんですね






その鍵辻の手前に、

福地蔵と呼ばれる「東の地蔵」があります。





今あるお地蔵様は明治28(1895)年のものですが、

それ以外にも、文化8(1811)年の馬頭観音石塔などが、

この場所にあります。いかにも宿場のはずれという感じです。







それらを眺めていると、ここに幾多の人々が

行き来した情景が浮かんでくるようです。

きっと、江戸から出稽古に来た近藤勇沖田総司

日野から府中や江戸に向かった土方歳三も、

この道を通っていたのでしょう。






お地蔵様は、今も行き交う人を見守っています。

日野宿 東の地蔵
日野宿 東の地蔵 posted by (C)ルンちゃん

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深大寺の天然理心流奉納額

  • 2009/07/21(火) 10:52:03

多摩の史跡案内  〜その28〜

          深大寺 元三大師堂 〜天然理心流奉納額〜

 

深大寺は、通称『厄除元三大師』とも呼ばれ、

733(天平5)年に開基されたという、

都内で浅草寺の次に古い歴史を持つお寺です。





元三大師(がんさんだいし)は、

天台座主(ざす)である良源のことで、

諡号を慈恵大師(じえだいし)といいました。





その慈恵大師の命日が正月の3日だったので、

「元三大師」と呼ばれるようになったのです。






元三大師は「厄除け」の霊験あらたかで、

除災招福や商家繁栄、良縁成就、交通安全等、

いつも祈願に訪れる人々で門前は賑わっています。






また、神社や仏閣でみかける「おみくじ」は、

慈恵大師が創始者ともいわれています。

つまり、誰もが馴染みのある方なんですね






さて、この元三大師堂に入ってすぐ、堂内を見上げてみると、

大きな奉納額があるのに気付きます。





これが『天然理心流の奉納額』です。






この奉納額は天然理心流宗家五代目である、

近藤勇五郎とその門弟たちが奉納しました。





勇五郎とは、近藤勇の甥(勇の実兄・宮川音五郎の子)であり、

勇の娘・瓊子(たまこ)の婿でもある人物です。

そして近藤勇亡き後、この勇五郎が

天然理心流宗家を継ぎ、五代目となりました。







ここにある奉納額は、明治40年3月3日、

勇五郎の門弟達が日露戦争に出征した際に、

彼らの無事を祈って奉納されたものです。






その奉納額の立派さもさるものながら、

重厚な佇まいは、彼らの祈りと共に

重く心にのしかかってくるほどです。






毎年3月3・4日には『だるま市』で賑わい、

また、門前に店が並ぶ深大寺そばは、

350年以上の歴史を持つ深大寺の名物となっています。





深大寺に訪れた際には、

是非、このそばの味もご賞味下さいね



東京都調布市深大寺元町5−15−1

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甲陽鎮撫隊、集結の地

  • 2009/06/29(月) 10:43:41

多摩の史跡案内  〜その27〜

          多賀神社 〜甲陽鎮撫隊、集結の地〜



八王子市役所近くにある多賀神社は、

八王子市街の西の鎮守さまです




「西の総社」ともいわれ、夏に開かれる

『八王子まつり』
のご祭神の1社です。(東は八幡八雲神社)

過去記事 ⇒ 八王子まつり





939(天慶元)年、武蔵介源義経基が、

いざなぎのみこと、いざなみのみことを祀り、

この地の繁栄を祈ったのが始まりとされています。





また1260(文応元)年には、

北条時頼が諸国巡行でこの地を訪れた際、病にかかり

社殿に古鏡を奉納し祈願したところ、

すぐさま治癒したので、そのお礼にと

社領七反歩を寄進し祈願所にしたともいわれています。





多賀神社
多賀神社 posted by (C)ルンちゃん



そんな由緒あるこの多賀神社には、

『1868(慶応4)年、甲陽鎮撫隊が

 甲州勝沼で敗退したとき、隊士たちが

 この八王子まで逃げのびこの地に集結した 』


という古老の言い伝えがあるそうです





勝沼戦で板垣退助率いる東山道先鋒軍に惨敗した

甲陽鎮撫隊は、笹子峠を抜けこの八王子に戻ってきました。





彼らは一旦この地に集まり、

再起を図るべくひとまず江戸に引き上げようと、

再び江戸へと向かったそうです。





また、この神社は八王子千人同心

信仰厚い神社でもありました。





1866年の第2次長州征伐の際、

大阪に赴いた将軍のお供として、

大阪に滞陣した八王子千人同心たち。





その組頭の神宮寺金一郎と川村豊左衛門、

そして塩野幸七郎の3人が、大坂の額細工司、

豊田左兵衛に扁額作成を依頼し、

この多賀神社に奉納したとのことです。




「多賀宮」と書かれたその扁額は今も現存し、

幕末期における貴重な千人同心関係資料として、

八王子郷土資料館 で大切に保管されています


多賀神社 鳥居
多賀神社 鳥居 posted by (C)ルンちゃん



お祭りでにぎわうこの神社も、

今の時期は人影はなく、ひっそり静まりかえった様子。





神社の境内には、『八王子まつり』に繰り出される

千貫神輿(せんがんみこし)や氏子各町会の山車が、

出番が来るまで大切に、格納庫に保管されています。


多賀神社鳥居と洋灯
多賀神社鳥居と洋灯 posted by (C)ルンちゃん
入口には鳥居と、なぜか洋風の灯りが^^;
なんとなく不思議な光景でした


多賀神社
八王子市元本郷町4−9−21

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近藤勇の坐像

  • 2009/05/25(月) 10:37:35

多摩の史跡案内  〜その26〜

          西光寺(さいこうじ) 〜近藤勇の坐像〜



京王線「西調布」駅の改札を出て、旧甲州街道へ。

街道を日野・八王子方面(左)へ歩くこと3分。

中央高速道路をくぐる少し手前の左側に、西光寺があります。





西光寺の開基は聖天坊法師で、

応永年間(1394〜1428)とされています。

その頃は真言宗に属していましたが、

弁盛法印が移ったとき天台宗に改宗し、今に至ります。





西光寺に安置されている多くの彫像は、

当時の様子を知る貴重な史料でもあります。

中でも市指定有形文化財である観音三十三応現身像は、

江戸時代の最高級の彫刻の技が見られる彫像です





また本堂の大日如来坐像は、万治3年(1660)に

月待講
(女性達が月夜に集まり月を祈る信仰)の

掛銭で造像した像で、体内に女性数名の名前と

頭髪を包んだ紙片が納められています。





慶応4年3月。


近藤勇
率いる甲陽鎮撫隊が江戸から甲府へと向かう途中、

この寺に立ち寄ったとの伝承があるそうです

その際、上石原の氏神様である若宮八幡神社の方に向かって

近藤勇が戦勝を祈願したといわれています。

※ 過去記事 ⇒
 若宮八幡神社





またその時、西光寺の門前にある

名主の中村勘六の家で歓待を受けたともいわれています。

近藤は村人たちの見送りに答えながら、村境まで歩いたそうです。





近藤勇没後130年の時、

「近藤勇と新選組の会」
が130年の記念にと

近藤勇坐像建立委員会を立ち上げました。

そして、調布市の観光の一環というかたちも含め、

3年後の平成13年10月8日に、

縁のある西光寺に近藤勇の坐像が建てられたのです。



調布、西光寺
調布、西光寺 posted by (C)ルンちゃん




坐像の高さ1.5メートル。

台座の高さ約1.2メートル。

近づくと、意外なその大きさに圧倒されますよ





当時の近藤勇らが見たかもしれない宝暦年間(1751〜64)建立の

本堂、庫裡、薬師堂などの建物は、

残念なことに明治12年の火災で焼失してしまいました





火災を免れた山門や楼門と、坐像のとなりに建つ常夜灯が、

当時の様子をかすかに伝えています。




調布の西光寺、山門・楼門
調布の西光寺、山門・楼門 posted by (C)ルンちゃん




また7月になると、檀家から寄進された

大賀ハス
が見事に咲きそろい、

参拝者の心を和ませてくれます




西光寺
調布市上石原1−28−3



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近藤先生の碑

  • 2009/04/11(土) 14:19:50

多摩の史跡案内  〜その25〜

          清水寺(せいすいじ) 〜近藤三助の慰霊碑〜


東京都町田市相原町の清水寺(せいすいじ)は、

一見すると新しいお寺のように見えますが、

奥へと足を進めると、風情のある建物が見えてくる

不思議な場所です。


清水寺
清水寺 posted by (C)ルンちゃん


1624(寛永元)年頃からあるお寺のようですが、

幕末になってから、当時の名主であった

青木勘次郎易道
を中心とした村民たちが整備し、

今のようになったということです。





急な階段を登ると観音様が安置されている観音堂があり、

そのため昔は「相原観音」とか「坂下観音(地名から?)」とか

呼ばれていたそうですよ。




そして、このお寺の敷地内に近藤先生碑という

天然理心流二代目近藤三助の慰霊碑
があります。

清水寺の近藤先生碑
清水寺の近藤先生碑 posted by (C)ルンちゃん


この碑は幕末の頃、先ほどの青木勘次郎易道らが、

三助の七回忌のときに建てたものです。

三助はこの地にも足を運び、

天然理心流を広めていたんですね




台座には53人の名が連なっていますが、

その中に近藤勇の義父、近藤周助の名もあるようです。

ちなみに周助の実家の小山町はこの近くにあります




碑はかなり痛んでいますが、その裏面には、

近藤内蔵助や三助の文字を確認することができます。


内蔵助の文字
内蔵助の文字 posted by (C)ルンちゃん
画像クリックで、文字が確認できます^^




行ったときには満開の桜が風に揺れ、

桜吹雪の中で、とても幸せな気分を味わえました

四季折々に、チョッとした風情を味わうことのできる空間です。


臨済宗清水寺/東京都町田市相原町

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保井寺

  • 2008/11/06(木) 10:32:12

多摩の史跡案内  〜その24〜

          保井寺 〜斎藤一諾斎の墓〜



4月の中旬に、五色椿の美しく咲きほこる保井寺は、

およそ400年前の天正年間に井上掃部之輔頼秀が開基、

永林寺第四世妙庵長銀上人が開山した寺です。


保井寺山門
保井寺山門 posted by (C)ルンちゃん




もとは鳳栖庵と呼ばれ、小庵としてあったものですが、

井上家の菩提寺となってからは、保井寺と呼ばれるようになりました。

ご本尊は虚空蔵菩薩です。




この寺には、新選組隊士だった

斎藤一諾斎(いちだくさい)の墓があります

一諾斎墓所への案内看板
一諾斎墓所への案内看板 posted by (C)ルンちゃん




栗塚旭主演のテレビドラマ「燃えよ剣」では

斉藤一が一諾斎を名乗ったように描かれていましたが(もちろん原作も)

斉藤一
斎藤一諾斎は全くの別人ですよ




斎藤一諾斎は慶応4年3月当時、

甲州都留郡強瀬村の全福寺の住職でしたが、

近藤・土方率いる甲陽鎮撫隊に物資を提供するなどで、

全面協力
をしました。




一諾斎は還俗(げんぞく)の後、彰義隊として参戦しますが、

その後、新選組に入り会津戦争に参加し、

仙台において離隊、明治政府に降伏します。




釈放後、土方の親戚である日野の佐藤家に立ち寄っています。

八王子で寺子屋を開くことになり、

地域の教育にあたるようになりました。




病気の為、一旦は甲州に戻りますが、再び八王子に赴き

明治7年12月18日、62歳で生涯を終えるまで、

終始、地域教育の普及に尽力したのです。




この保井寺は、かつて一諾斎の寺子屋での教え子であった、

保井寺二十三世が亡き恩師を埋葬した場所です。

彼の寺子屋があった場所は、八王子市立柚木東小学校として

今も子供たちの学び舎となっています。




一諾斎の教育への情熱は、今もなお

この地に引き継がれているのです


斎藤一諾斎の墓
斎藤一諾斎の墓 posted by (C)ルンちゃん

                   お墓の脇の説明碑
            お墓の脇の説明碑 posted by (C)ルンちゃん

竜沢山保井寺(曹洞宗)
東京都八王子市堀之内547




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大法寺

  • 2008/10/18(土) 12:57:04

多摩の史跡案内  〜その23〜

          大法寺 〜横倉甚五郎の墓〜




八王子駅より国道16号線を橋本方面に向かい、

16号バイパス鑓水インターチェンジ近くの

「北鑓水」交差点を抜けると左方向に大法寺があります。




大法寺は天正年間(天正10年とも)に

身延山17世 慈雲院日新上人により開山された寺です。





この寺は開山当初、

滝山城下である元八王子にありました
が、

その後八王子市上野町へ移転しました。

さらには市の区画整理の対象となり、

総代世話人会での協議の上

昭和43年に今の地に移転し現在に至ります。





広大な敷地のひと隅、13区画に

横倉甚五郎の墓
があります。




横倉甚五郎は1864(元治元)年に入隊した新選組隊士で、

八王子市堀之内の出身
でありました。





彼は伊東甲子太郎暗殺や、

伏見墨染での近藤狙撃事件の際にも

現場を体験している人物です。





その後、土方歳三と共に各地を転戦し、

箱館で降伏、江戸へ送られますが、

翌年獄死してしまいます。




大宝寺にある甚五郎の墓は

昭和51年秋、

横倉家のご子孫の建てた供養墓です。




獄死というつらい最期ではありますが、

ご子孫の手によって、

今も花が供えられています。


横倉甚五郎の墓
横倉甚五郎の墓 posted by (C)ルンちゃん
画像をクリックすると、表面の文字がはっきり確認できます




大宝寺山門
大宝寺山門 posted by (C)ルンちゃん

日蓮宗 寳祐山大宝寺
八王子市鑓水1356番地



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土方歳三の銅像

  • 2008/10/03(金) 16:48:32

多摩の史跡案内  〜その22〜

          土方歳三の銅像




京王線「高幡不動駅」を出て

参道の商店街を歩くとまもなく、

高幡不動尊の仁王門
が見えてきます。

その山門の向こうには、朱色の五重の塔が美しく映ります。





仁王門をくぐり、左にある弁天池のほとりに

土方歳三の銅像
があります。





像の高さは2.4メートル、

台座からだと4.3メートルもある

立派なものですよ






この銅像は1995(平成7)年に

日野ロータリークラブが建立したものです。

同年11月3日の除幕式の際には約200人もの人々が参列し、

盛大な式となりました。






土方歳三というと、

残された写真から洋装のイメージが強いですが、

ここでの土方は、ダンダラの羽織に

土方家の家紋「右三巴」を記した胴をつけ、

そして、誠の鉢金を巻いた凛々しい立ち姿
です。






この銅像製作に監修された谷春雄氏は、

地元の郷土史研究家であり、また

日野での新選組史料を多数発掘された

新選組研究家でもありました。





その谷氏のアドバイスのもと、製作されたのが

京都時代の、今まさに出陣しようとする

土方歳三の勇姿
です





建立当時は、境内のその像が

やけに目だってみえたものですが、

今ではすっかり周りの風景に溶け込み、

静かに参拝者を見守っているようです。






勇姿を写真に納める人も多く、像のとなりにある

「殉節両雄之碑(近藤・土方の顕彰碑)」と共に

高幡不動尊の名所にもなっています。



土方銅像

この銅像の下に「牛革草」も生えてます^^一緒に見て下さいね

土方銅像 posted by (C)ルンちゃん



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中島登の出生之地碑

  • 2008/08/22(金) 11:15:59

多摩の史跡案内  〜その21〜

          中島登の出生之地碑





「戦友姿絵」という近藤勇や土方歳三を含む

隊士たちの絵を見たことがありますか?






トラの陣羽織を身につけた土方の絵など

独特なタッチなので、

一度見たら忘れないかもしれませんね






その絵を描いたのが中島登(のぼり)です。

彼は箱館戦争まで参戦した数少ない新選組隊士の一人で、

弁天台場で降伏の後、謹慎中に

「中島登覚え書」
やこの「戦友姿絵」を書きました。






この中島登の出生地が、

東京都八王子市
になるのです。





中島登は、1838(天保9)年2月2日に

この地で誕生しました。

幼名は峯吉といいます。






彼は千人同心だったともいわれ、

天然理心流の道場、山本満次郎に入門し

そこで剣や薙刀などを学んでいました。






彼の名が新選組史に頻繁に登場するのは

1868(慶応4)年の甲陽鎮撫隊の頃からですが、

実際は1864(元治元)年には

すでに入隊していたともいわれています。







彼はしばらく上洛することなく、

主に武州・相模・甲州の情報を収集する

諜報員として活動していたようです。






その後上洛し、1867(慶応3)年には

伍長となっています。






戊辰戦争が勃発し、甲陽鎮撫隊での戦い以降、

土方に従って東北・蝦夷を転戦。






箱館戦争後は謹慎、そして釈放となり

一度多摩に帰還しますが、

浜松で事業を起こすことを決意し、

以降八王子に住むことはありませんでした。







登の墓は浜松市にあります。

八王子には、今はリサイクルショップとなった敷地の片隅に、

彼の出生の碑があるだけです。




中島登 出生之地碑
中島登 出生之地碑 posted by (C)ルンちゃん



中島登とは?
⇒ 中島登 Wikipedia





中島登生家跡(中島登 出生之地碑)
東京都八王子市西寺方町389





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八王子千人同心屋敷跡記念碑

  • 2008/08/16(土) 10:24:47

多摩の史跡案内  〜その20〜

    八王子千人同心屋敷跡記念碑




日野方面から八王子に至り、

甲州街道から陣馬街道に入る追分の交差点近くに

八王子千人同心の碑
があります。





八王子千人同心とは、その昔

甲斐武田家が滅ぼされた時に徳川家康が

その武田の遺臣を中心に作った隊です。






武田の小人頭以下250人をメインとして、

近在の地侍らを取り立て、千人の集団を作りました。






江戸城の半蔵門は甲州街道を直進に駆け抜ける位置にあり、

非常事態の際、江戸に攻め入る敵に対し、

将軍がそのまま甲州街道を駆け

甲府城で再起を図るために作られたといわれています。







その甲州との境という

要の部分になる八王子に千人同心を置いたのも

意図的な判断からでしょう。






実際に千人同心は、関が原の戦いや大阪の陣、

幕末には長州征伐にも参戦しています。







泰平時には日光東照宮を警備する日光勤番として赴任し、

また、江戸時代には防衛のため

一部の同心が蝦夷地へも赴いています。

(榎本軍が渡ったのはそれよりずっと後です)







この碑のある追分の地の近くに

千人同心の小頭たちの住居がありました。

その記念碑が現在の「八王子千人同心屋敷跡記念碑」になります。







他の同心達は各自地方に散在し、

日ごろは農業に従事しながら、

事あるときの為に武道の修行に専念していました。






新選組井上源三郎の家も千人同心でしたので、

兄が家茂上洛の際に供をしています。

また隊士の中島登も千人同心の出身です。






そして千人同心達が稽古していた剣術の主流が

天然理心流だったというのも

興味のつきない事柄です





八王子千人同心屋敷跡記念碑
八王子千人同心屋敷跡記念碑 posted by (C)ルンちゃん





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桂福寺(天然理心流二代の墓)

  • 2008/03/12(水) 10:55:39

多摩の史跡案内  〜その19〜

            桂福寺(天然理心流二代の墓)




車の往来がはげしい国道16号から滝山街道に入ると、

幾分のどかな風景が感じられ、少しホッとします。





その道をしばらく車を走らせると、

桂福寺の文字が見えてきます。





山門に至る小道からは鮮やかな朱色が見え、

それが青空に映えてとても美しい光景です。




080309_1404~01
桂福寺山門 posted by (C)ルンちゃん
八王子の重要文化財です




桂福寺
は1625(寛永2)年

八王子第18代代官 福村長右ヱ門の開基、

そして弟の奪山正與大和尚(川越市渋井 連光寺)開山のお寺です。






境内西側にあった庵の名「桂堂」の“桂”の字と

福村の“福”の字を取って『桂福寺』と名付けた

という古老の口伝が残っています。





この朱色の山門は

1823(文政6)年に建てられたもので

木造欅造りです。





見上げた屋根は茅葺きで素朴ではありますが、

それでいて重厚な雰囲気をも感じさせます。





山門を入った左手には

天然理心流宗家二代目 近藤三助の顕彰碑が建っています。

またその隣には戸吹で天然理心流の道場を構えていた

松崎和多五郎の顕彰碑
もあります。





どちらも門人が建てたもので、

戸吹での天然理心流の盛況さが感じられますよね

080309_1405~01
三助、和多五郎顕彰碑 posted by (C)ルンちゃん




本堂左、集会所の渡り廊下をくぐると

屋根の下に三基の墓を見ることができます。




これが天然理心流宗家初代・二代の墓です。

080309_1413~03
近藤内蔵之助、三助の墓 posted by (C)ルンちゃん



右から初代近藤内蔵之助、

中央は昭和44年に建てた初代・二代の合同基。

左は二代近藤(坂本)三助。





そのうち右と左の墓は、もとは

坂本家実家の屋敷墓地に建てられていました。





しかし明治初期、

宗家四代目である近藤勇の縁者として

処罰されるのを恐れ、二基とも

土中に埋められてしまったのです。





特に三助の墓石は大きかったためか

粉々にくだかれしまったようです






その後昭和45年に発掘され、

粉々の墓は修復されて

現在の場所に移されました。





今でもはっきりとわかる

修復の痕は痛々しいものですが、

当時の人々の心情が察せられる

貴重なものとなっています。





天然理心流関連のものが

こうして集中して見学できる場所は

そう多くはありません。





その点では、やはり

近藤三助の出身地である戸吹の地は、

天然理心流にとって特別な場所だと

いえるのでしょう。


治龍山桂福寺
東京都八王子市戸吹町193

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