会津藩士 柴司

  • 2008/06/12(木) 11:32:32

新選組版「今日は何の日」です。

といっても会津藩士の話になりますけど。





京都金戒光明寺(黒谷)には、幕末の頃

京都守護職の任を受けた藩主 松平容保に従い、

遠い会津から京へと赴き、

志半ばで異国の地で果てた会津藩士たちの墓があります。





そのひとつ 柴司(しば つかさ)の墓。

彼の死は思いがけないものでした。





彼が亡くなったのは1864(元治元)年6月12日のこと。

池田屋事件から数日経った日の出来事です。





6月5日の池田屋事件以降、

京都では長州派浪士の残党を捕らえるべく、

幕府方の探索が激しさを増していました。





東山にある料亭「明保野」に

長州人が多数潜伏しているとの報告を受け、

武田観柳斎率いる新選組
と、

その応援部隊として同行していた

会津藩士ら5名
が料亭にやってきました。





出入口を固め家屋に突入し

一通り捜索しましたが浪士たちは見当たらず、

庭へと移動したとき、離れ座敷にいた武士が

逃亡するのを発見したのです。





すぐさま武田観柳斎が「逃がすな」と命じると、

会津藩士の柴司が追いかけ、垣根に追い詰めました。

その武士が抜刀したので柴は槍で相手を突き、逃亡を防いだのです。





ところが相手が「土佐藩の麻田時太郎である」

と名乗ったことから、この悲劇は始まります。





土佐藩と会津藩は当時 公武合体を志す、

いわば同志の間柄。





その二つの藩の間で刃傷沙汰があったことは、

誤解とはいえ友好関係にヒビが入りかねません。





すぐさま会津藩公用方が、

謝罪のため土佐藩邸を訪れましたが断られ、

それでも会津藩は次の日も土佐藩へ医者を差し向けました。





しかし、このとき既に麻田は、不逞浪士に間違えられた上、

傷を負わされたことを恥じて自刃して果てていたようです。






土佐藩邸での状況を察知した会津藩は

ふたつの藩の今後の関係を懸念し、

苦渋の選択を迫られることとなります。





このままなにもせず うやむやにするか。

それとも柴に責任を取らせるか。





結局、柴司は

兄である外三郎の介錯により切腹しました。





新選組の方では、わずかな誤解から

このような最悪の事態になるとは想像もせず、

13日の柴司の葬儀には、土方歳三、井上源三郎、

武田観柳斎、河合耆三郎、浅田藤太郎らが参列し、

声をあげて彼の死を悲しんだといわれています。





この事件の当事者である 武田観柳斎は

彼の死に際して、追悼の和歌を詠んでいます。




我もおなし 台(うてな)やとはんゆくすえは 同し御国にあふよしもかな





柴司、

享年21歳。


彼の墓は今も金戒光明寺にあります。





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