浪士隊編成発表の日

  • 2009/02/05(木) 11:23:53

昨日に引き続き、新選組版「今日は何の日?」です^^




1863(文久3)年2月4日に、伝通院の塔頭

処静院(しょじょういん)に集まった浪士たち。




その日、浪士取締役だった松平主税介が

突然辞任してしまったのは、前回のお話の通り

昨日の記事 ⇒ 浪士大集結の日




その翌日、1863(文久3)年2月5日。

じつはこの日も、再度浪士たちは集められたんですね。




幕府の役人らは松平主税介の後任として、

当日付けで鵜殿鳩翁が就いたことを知らせます。





鳩翁は

「約束の金は出せないが、諸君らは志あって

 この場所に来たのだろうから、

 よもや金額に左右されるものではあるまい






なんて威圧的に言ったのかは、さだかではありませんけど

幕府からの説明を聞いて、大半の浪士は残ったようなんですね。




そんな浪士たちにこの日、

道中心得が申し渡され、編成表が発表されました。






この編成表については

いろいろな人が残しているのですが、

はっきりしたところはわかっていません。




でもだいたいは、こんなところみたいです



まず、浪士頭から始まって、

取扱い、御目付、取締り、取り調べ役などの

各役職があったようです(名前は省きます)





10人ごとに小頭(伍長)が付き、それで1隊。

3隊で1組として、そこに組頭がつきます。

それが1番から7番組まであるという感じです。
(別な分け方をしている史料もあります)





試衛館メンバーは6番組。


井上源三郎
だけ別の組に離れていたのは、

日野からの参加者が他にもいて、

彼らと共に名簿を提出していた為と思われます。




近藤勇
は他に浪士組取締付の池田徳太郎の元で、

道中の宿割りの役にもついていたようですが、

これが、ある事件を引き起こしたともいわれていますね





永倉新八
によれば、試衛館一同の組頭が

なんと芹沢鴨だったともありますし…

ここから、既に芹沢一派との腐れ縁が

始まっていたのかもしれません





浪士たちは、この編成表を見て

ますます士気を高めたんでしょうか?

それとも不安になったでしょうか?




その辺りはわかりませんけど、

3日後の江戸出立に向けて、それぞれ準備を進めたのです。


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