勘定方、河合耆三郎の災難

  • 2009/02/12(木) 10:35:25

新選組版「今日は何の日?」です。



慶応2年2月2日のこと―――

勘定方、河合耆三郎が隊の金子を調べたとき、

50両がない事に気づきました。




その時すぐ、上司に報告すればよかったのかもしれません。




でもちょうど、近藤勇は広島へ出張中で、

留守を預かっていたのは、副長の土方歳三でした。




小さな失態でも許されない緊張の隊内で、

紛失の報告もできずにいた河合は

他の隊士にはとうてい真似できない、ある行動を取ったのです。





じつは河合の実家は播磨の米問屋。

不足の金を父に用立ててもらおうと、国許へ飛脚を出しました。





飛脚の手配が済んで、ホッとしたのもつかの間。

土方が河合を呼び出し、

いま蔵にいくらの金子があるのか尋ねます。




「500両です」





河合の言葉に、今すぐここへ持ってくるように

土方は命じます。しかし金はない。

しかたなく、河合はありのままを告げました。





さあ、大変!

ここで初めて50両がないことが露呈したのです





すぐさま、河合は重謹慎となりました。

取調べを受けますが、真犯人がみつかるわけもなく、

その後、隊規により隊金私消の罪で斬首に決まります。

河合は「国許に飛脚をだしたので、それが戻るまで

処分を待って欲しい」
と言います。





なんとか12日まで、処分は日延べされましたが、

いっこうに国許からの飛脚はきません。

とうとう日没になっても使いは現れませんでした。





夜になり、処分の場に河合は引き出されます。

介錯人が彼の後ろに立つと、蒼白な顔をした河合は

「播磨からの飛脚は、まだ来ませんでしょうか」


と尋ねます。





「まだだ」と答えても消え入りそうな声で、

何度も何度も尋ねるのです。

しかし、とうとう河合の願いむなしく

彼は処断されました。





1866(慶応2)年2月12日
のことです。




3日後、河合の待ち望んだ飛脚が来ました。

河合の父はちょうど外出中で、

手紙がなかなか父の元へ届かなかったのです。

彼からの手紙を受け取った父は、すぐさま

50両を届けさせましたが、すでに彼は処断された後でした。





このエピソードはよく知られる

河合耆三郎にまつわる話です。

でも、本当のところはよくわかっていません




彼がどのような理由で処断されたのか、

はっきりとしていないのです。また

斬首だったとも、切腹だったともいわれています。





でも確かに、1866(慶応2)年2月12日に

亡くなったことは事実のようです。





河合の死を知った父や親族は、新選組の無慈悲に対し、

彼らなりの方法で抗議しました。

河合の死後1ヵ月後、空の輿を担ぎ立派な法衣を着た僧侶たちが

なんども鉦を叩きながら、屯所前を行ったりきたりしたそうです。





今、壬生寺にある立派な河合耆三郎の墓は、

彼の親族が建てたものといい、

光縁寺にある隊士たちの墓が風化し朽ち果てていく中で、

彼の墓だけは朽ちることもなく、凛とたたずんでいます。





親族の思いが今だ強く宿っているような、

そんな雰囲気を感じさせる墓碑です。

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この記事に対するコメント

こんばんは

これ、大河ドラマで見ました。悲しいというか悲劇です。
彼は最後まで飛脚を待っていたのでしょうね。きっと。
けど、この切腹に沖田・土方・永倉・近藤はどんな気持ちだったのかな?
たぶん、悲しかったと思います。

新選組!

勇春さん、こんばんは^^

「新選組!」このお話ありましたね。
あのお話では土方さんが処断の後、
切ない表情をしていたのが印象的でした。

実際でも沖田さんや永倉さん、近藤先生ともども、
同じような気持ちでいたことと思います。
河合さんは池田屋騒動のときにも出動した数少ない古参隊士だったのに、
最期があまりにも悲しすぎますね。

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