永井 尚志と新選組

  • 2010/11/23(火) 22:33:14

大河ドラマ「龍馬伝」

いよいよ次回が最終回ですね

龍馬の最期は誰もが知っていることですけど、

どんな風に描かれるのか、チョッと気になるところです。






先日の47話「大政奉還」の中では、

龍馬は一人の幕臣に会っていましたね。

その人の名は永井尚志(ながい なおゆき)。

史実でも、この頃龍馬は彼と会談を行ったようです。







永井尚志は、第5代三河奥殿藩主である

松平乗尹と側室の間に生まれた子で、

彼が生まれた頃には、すでに

家督は養子の松平乗羨が継いでいたことから、

25歳の頃に旗本・永井尚徳の養子となりました。






1853(嘉永6)年に目付に就任。その後

長崎海軍伝習所の総監理になっています。

外国奉行になった際には、

各国との通商条約調印にも携わっています。






そして、軍艦奉行・京都町奉行・大目付を勤め、

最終的には若年寄にまで登りつめたという、

旗本にしては異例の出世を遂げたすごい人なんですよね






さて、この永井尚志と新選組との関わりは、

永井が京都町奉行として勤めていた頃が最初でしょう。

1862(文久2)年に奉行に就任した翌年、

江戸から浪士組がやってきます。

つまり近藤勇たちです。







この頃は直接会ってはいなかったかもしれませんけど、

仕事柄、その様子を聞いたりしていたと思われます。

(関連書類が残っています^^)







直接の関わりで有名なのは、

1865(慶応元)年11月の長州尋問使派遣の時ですね。

その頃大目付だった永井は、尋問使として長州に向かいます。

その時、護衛も兼ねて同行するのが、

近藤勇ら9人の新選組隊士でした。







広島に着いた永井は長州藩に長州への立ち入りを拒絶され、

かわりに近藤らを永井の家臣として

長州に入国させるよう長州に要請しますが、

それも結局断られたのです。






相手に拒絶されたとはいえ、近藤を自分の家臣として

長州に潜入させようとした永井と近藤には、

少なからず信頼関係が結ばれていたはずです。

大政奉還後、新選組を京都から伏見奉行所へ移動させたのも

たしか永井の指図でしたね。








旧幕府軍が蝦夷に向かった際には、

そのメンバーの一人として永井も加わりました。

五稜郭では箱館奉行に選出されます。

陸軍奉行並になった土方歳三とは、

何かと会話がなされたことでしょう。






1869(明治2)年5月11日の新政府軍との激戦の際には、

永井は砲兵隊や新選組と共に弁天台場に立てこもっています。

(永井は台場守備隊の総指揮官でした)

けっきょく五稜郭より先に降伏しますが、

偶然にも新選組と共に時を過ごすわけです。






こんな風に新選組とは意外と係わり合いがあるのが、

永井尚志ですよ。そのせいもあるのか、

私の好きな歴史上の人物の一人です



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この記事に対するコメント

永井尚志、私も好きな人物の一人です。外国奉行や長崎伝習所の総監や京都町奉行などを歴任し若年寄りまで上り詰め、五稜郭まで新選組とは縁の深かった人物ですよね。永井の墓所、日暮里の本行寺へ墓参に行ったことがあります。

ルンちゃん

早々さん、こんばんは^^

早々さんもお好きですか?
墓参までしたなんてすごいですね。

永井様については、まだまだ知らないことがあるので、
これからも調べてみたいです。

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