本当の「ラストサムライ」

  • 2007/02/13(火) 14:06:34

1月14日付の東京新聞に ジュール・ブリュネの子孫が

「タイクンの刀」として、三振の日本刀を保管している
という記事がありました。





そのうち一番小さい短刀は、大君(タイクン)つまり将軍(徳川慶喜)から

贈られた可能性が最も高いものだそうです。





ジュール・ブリュネとは?






一応 ご説明しますね。

1867(慶応3)年1月

幕府の要請を受け フランスから軍事顧問団が来日しますが、彼はその副団長でした。

幕兵たちにフランス式の調練を行い 徳川幕府に貢献しますが、

戊辰戦争で幕府軍が次々敗北すると、顧問団に本国帰還命令が出されます。


その時彼は「私の教え子たちを ほっておくことはできない」

と辞表を出し、気持ちを同じくする他のフランス人と共に

榎本武揚の軍に加わり、函館戦争に参戦します。


函館戦争での敗色が濃くなると、同行者の帰国に配慮し、

最終的には榎本達と決別、フランスへ帰国することとなります。




辞表を提出した直後の彼の手紙には

「幕府の好遇に 私の誠意と友情を持って報いたい。そのために死んでもいい」

との固い決意が書かれていたそうです。







早乙女貢先生
は「お雇い士官ブリュネ/(イラストでみる函館戦争より)」の

エッセイの中で、

ブリュネはあくまでも決戦を考えていたが、

榎本は新しい共和国を夢見ていた。

彼と榎本達の目的の違和感。同行のフランス人たちへの配慮。

…もしブリュネ1人だったら、土方歳三と共に政府軍に斬り込んで

壮烈な最期をとげたかもしれない。


と書いています。





今から20年程前に、ブリュネの描いた日本のスケッチ画が多数発見されました。





それはどれも精密なもので、彼がこと細かく日本を観察していたことを

裏付けていると思います。

いろいろなものを見聞し、日本人に共感した ブリュネ。


「国境を越えた師弟愛」「フランス人と日本人との友情」

そして「フランス軍人魂と武士道の交わり」に、あの映画『ラストサムライ』と

重なるものを感じてしまうのです。








さて その後のブリュネですが、

一旦 軍を退役しますが、フランス国家の要請を受けて復帰。

一等大尉として普仏戦争に参戦します。

その後ウィーンやローマの大使館付き武官となり、最終的には師団長となって

活躍したそうです。







その間もブリュネのもとで「タイクンの刀」は大切にされ、

また子孫も代々大切に保管し 今日に至っています。



それは将軍から贈られたという歴史的価値のみならず、

ブリュネが祖国と同様に 日本を愛していた“あかし”にも思えて、

私には そちらの方がうれしいと感じられるのです。

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始めまして

ブログ訪問ありがとうございます。
カメ注意標識は沖縄本島の北部にあります。
カメさんが冬眠から覚めたらカメのお話も聞かせてくださいね。
充実した中身の濃いサイトで驚いてます。
実は私は会津藩の末裔らしいということもあって新選組にも少しながら興味があります。これからも遊びに来させてくださいね(^o^)丿

ありがとうございます

訪問ありがとうございます。

そうですかぁ 会津藩ゆかりの方ですか。そのうちご存知の会津のお話を聞かせて下さいネ。
また 遊びに行きます♪

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